空虚とも等しい意図

人間のクリエイターには申し訳ないが、AI の描いた絵をどうやらわたしは、人間の作を見るのと同じ態度で眺めているみたいだ。

 

現在の AI の絵は正直、人間の絵と比べて遜色がないとわたしは思っている。思っているというのはそれがよく用いられるように、本当は違いがあるけれどそれを努めて無視しているという意味ではないし、違いがないと言い切ってだれかの気分を損ねるリスクを緩和しているわけでもない。素直な評価としてわたしはやつらの絵を綺麗だと思うし、やつらに押されてイラスト界から人間の仕事がなくなったとしてべつに寂しいとは思わないけれど、そう思わないひとがいることは理解するし意見は尊重する。そういう意味での「思う」だ。

 

しばらく前までは、そう言ってしまうのは強がりだったかもしれない。一年前のやつらは細部を描くのが苦手で、絵の中の人間の手のひらのあるべき場所に、見るも気色の悪い形状をした肌色のもつれを生成していたものだ。正直言って不気味だったし、あの段階で AI は、まだ技術史に芽吹きかけた希望に過ぎなかった。だがいま、やつらは現実に、人間とまっすぐに肩を並べているようにわたしには見える。

 

こういうふうに考えるのは、わたしが絵画というものに明るくないからかもしれない。いまの AI の作るジョークが、それを AI が作ったのだという文脈を抜きにすればまったく面白くなどないように、見るひとが見ればもしかすればやつらの絵はまったくつまらないものなのかもしれない。わたしにはそれを判断するだけの素養がないし、目の前の作品を見てそれを描くに至った作者の創造力を読み取ることもできないし、そもそも細部に粗を見出そうと努力する以外の方法で、人間と AI の絵を区別することもできない。

 

わたしにとって絵画とは、完全に感覚的な存在である。というか、そこに感覚以外の要素が宿りうるということにすら懐疑的だ。わたしの感覚は人間と AI の絵を区別できないし区別する必要を感じてもいないが、それはそもそも、作品の背後に作者がいるという性質にこれといった価値を感じていないことに端を発している。カンバスに込められた感情がなんであれ、あるいは存在しなかったとして、絵はあくまで絵であり、絵そのものが惹起する感覚であり、それ以外の人間主義的ななにかではない。

 

わたしのような人間が多数派であれば、きっと AI とは黒船だろう。人間の作であることに多くのひとが価値を感じないのであれば、手軽さと速度の点で勝る AI が有利だ。そしてほとんどのひとが抽象芸術をよくわからないと言うように、大衆はきっと、絵画の奥に人間が設定しようとした文脈を理解しないだろう。

 

わたしはそれで構わない。だがおそらく一部は、人間の描いた絵でなければ駄目だと言うだろう。そう言い張るひとたちにわたしは共感しないが、できるならそのひとたちが信じている景色のほうを、すこし覗いてみたいとは思う。