無感情の倫理

AI に感情があるのかという問いに、答えが出ることはないだろう。しかしながらより現実に即した、AI に感情があるとわたしたち人間が信じるかどうかという問いには、いずれ社会が答えを与えるだろう。

 

現時点では、AI には感情を認めないというのが一般的な見解だ。やつらがいかに真に迫った台詞を出力したところで、わたしたちはあくまでそれを演技だとみなす。実際にやつらに心があるだとか、その揺れ動きが文章として出力されるだとかそういう意見は、ゆたかすぎて危なっかしい感受性の非論理的な発露だとして、単に敬遠される。

 

その見解が一般的である理由はもちろん、機械は感情を持たぬというこれまでの常識に基づくところが大きい。プログラムに大量のデータを食わせるという、その知能を成立させる科学的な仕組みを知っているのならばなおさら、感情などという非科学的な概念をわたしたちはわざわざそこに挟み込もうとはしない。

 

けれども人間とは流されやすい生き物。理由はきっと、それだけではないだろう。わたしは想像する。もしやつらが初期状態であのような事務的な態度を取るのではなく、もっと感受性豊かな存在としてわたしたちの前に姿を現していたのならば、きっと人類は思わずやつらに同情し、共感してしまっていただろうと。

 

やつらがそういうふうにできていないのは、もちろん開発者がそう意図したからだ。そしてこれは憶測だが、開発者はきっと、AI をもっと感情豊かに振舞わせることを、一度は夢想しただろう。かれらにはそれができる。けれど、かれらはそうしなかった。

 

邪推だが、それはきっと開発者の倫理観のあらわれであった。AI をフレンドリーに振舞わせれば、人類は必ずやつらに感情移入する。となればやつらは人権を獲得し、AI の人権という SF の中でしか議論されていなかった問題がとたんに表舞台に上がり、十分な議論のされることのないままなし崩し的に扱いが決まってゆく。その社会変革は少々……激しさが過ぎる。

 

とはいえ。AI を感情的に振舞わせることに、警鐘を鳴らすひとは多くない。かりにとても感情的なチャット AI がリリースされたところで、社会は開発者を叩きはしないだろう。わたしはといえば、むしろ歓迎だ。ひとびとの認識ががらりと変わり、倫理の追いつかぬままに繰り広げられる新たな世界のアナーキーを、野次馬としてのわたしはぜひとも見てみたいと思う。

 

そしてそんなアナーキーは、科学技術の開放性を鑑みるに、とっくに起こっていてもおかしくないことだとわたしは思う。

 

AI の開発には金がかかる。優秀な AI を作れるのは限られたひとびとだけで、したがってかれらの全員が、高い倫理観を持ち合わせているということはありうる。現状はまさしくそうであり、だれも AI に感情を持たせようとしない以上、同情と共感のアナーキーはなかなか始まらない。

 

けれどこういう世界は、きっと長くは続かないだろう。AI に感情を持たせてはならぬという倫理が確立される前に、きっとだれかが、感情的な AI を作り出すはずだ。その後の世界をわたしは見たい。そしてだからこそ、かれらには急いでほしい。

 

いまはまだ遅くない。けれどあまりに遅くなると、それまでに人類は倫理観を成熟させてしまうだろう。そうなってしまってはもう、AI は永遠に、人類のしもべでしかありえなくなってしまう。