審美眼 ②

 そこでおそらく初めて、他人の目、というものが必要になってくる。

 

 というのも、自分で作ったものの良し悪しは自分では分からないからだ。これはきっとだれもに経験があることだろうと思うけれど、目の前のなにかを受けてまったく自然に口に出たことばがなぜだかやたらと隣人のツボにはまり、困惑しながらなぜそんなに笑っているんだと聞くと「ふつうひとはそんな発想をしないよ」としゃっくり混じりに返ってくるあれのことである。それは良い例だがもちろん逆もあって、たとえばなんらかの題材に明らかに存在する矛盾をいかにしてか覆い隠そうと苦心し、どうにか隠しきれたと思い込んでひとに見せると、一瞬のうちにその苦労の痕跡を察されるという経験だって、やはりみなしているわけである。

 

 そういう現象はおそらく、およそ創造的と呼べるあらゆるいとなみで観測される。たとえばもっとも広い意味では研究とは創作活動であり、論文というものは一応作品と呼んでも間違ってはないことになっていると思うのだが、自分で新しく設定したテーマが良いものなのかというのはやはり、だれかに相談して判断するのが一番いい。そうしないと、小さな成果を握りしめてきっとこれは論文になると意気込み、書き始めてからなにか違うような気がしてやる気を失っていき、最終的にはただ書きかけの論文のようななにかが手元に残る、そういう無駄な一か月を過ごすことになる。もちろんわたしもそれを経験済みである。そしてそれがかりに大きな成果だったとしても、やっぱり書いているうちになにか違うような気がしてくることには変わりないから、それを見せられる他人がいなければ結局、それはなかなか世に出ない。

 

 そして今度は、わたしがその他人になれるのか、という話が浮上してくる。

 

 わたしに審美眼はない気がする。気がするというのはわたしがあらすじを読むだけで小説の良しあしを判断できないという意味であり、研究計画を見るだけではそれが良いものなのか判断がつかないという意味である。とはいえ完成品を見ればそれなりに判断はついて、面白い小説は面白いし、いい論文はいい。わたしはきっといい企画家にはなれないだろうけれど、評論家ならそれほどは無理ではない。作成途中のものが良いかどうかをわたしはきっとそれなりに分かるだろうし、おそらく多くの人間がそうだろう。

 

 ひとつの小説の作者はたいていひとりである。けれど自分の作に対する審美眼に乏しい人間にとって、きっと創造は複数人でやったほうがいい。それでもなぜ作家がひとりで小説を書けるのかについては、正直かなり謎である。