良さのジレンマ

「良い」作品とはなにか。ひとことでそれに答えられるのならだれも苦労しないけれど、自分が作品を受け取る側であれば、話は簡単である。

 

「良い」作品とはわたしが摂取して、良かったと思える作品である。良かった、には楽しかっただとか爆笑しただとか悲しくなったとか理不尽な気持ちになったとか社会に関する理解が深まったとか人生について考えるきっかけになったとかとにかくいろいろなケースがあるけれど、そういうものを全部ひっくるめての「良かった」である。あいまいな定義ではあるけれど、それ以上に明確に「良かった」を説明しようとすると嘘になってしまうからどうしようもないし、わたし個人にとってはそれで十分定義になっているのだから、べつに問題もない。

 

とはいえ作り手となると話は別だ。いいや一緒だろうと言われても、違うものは違う。一見すると、自分が受け取り手だったと仮定してみたときに「良い」作品になるものが作り手から見てもまた良い作品である、という議論が成り立ちそうにも見えるが、実際は記憶を消しでもしない限りそうはならない。自分が作ったという記憶があり、作った当時のことをよく知っている限り、作者はけっしてその作品を、純粋に受け手の気持ちで見ることはできない。

 

じゃあどうすればいいかと言われると難しいところである。おそらく一番普通の選択肢は価値基準を外部化することで、身近な人間でも社会全体でもなんでもいいけれどとにかく信頼のおける受け取り手に見てもらい、評価を聞いて良さを定義する。だれかが良いと思う作品は一般的に見て、だれも良いと思わない作品より良い傾向にあり、だからこの基準はある程度、先の意味での良さの近似になっている。とはいえやっぱりひとによって感性は違うから、それはあくまで非常に雑な近似に過ぎないのだけれど。

 

かくしておそらく、作者は「良さ」を頻繁に勘違いする。だから容易に想像がつくこととして、良いはずの作品を作者は途中でやめてしまったり、逆にまったく良くもなんともない作品を、最後まで書いてしまったりするのだろう。

 

「自分の好みを満足してくれるものがないから自分で書いた」。漫画や絵の分野でしばしば語られるそれは、考えれば考えるほどよく分からない概念である。作者とは純粋な読者になりえない唯一の存在であり、したがって受け取り手としての作者は、自分の欲求を永遠に満たせない。作者以外の万人の欲は満たせるが作者だけは無理で、したがって理屈上、作者は書こうが書くまいが苦しみ続ける。

 

「良さ」が分からない中で良いものを書くのはきっと難しく、実際にわたしはそれができない。