審美眼 ①

 どう書いてもくだらないテーマについて書き、良い文章にならなかったそれをうじうじと推敲して、一向にまともにならないそれを見て初めてテーマ選定が悪かったのだと気づくような、そういう回り道を笑って許していられるほど、現代人は時間に甘くはない。わたしももちろんそうで、文章の細部の出来にどうせあれこれと悩まなければならないなら、悩む価値のある文章でそうしたい。そして悩む価値のない文章については、最初から書かずに済ませてしまいたい。

 

 そうするためにはもちろん、予測をする必要がある。目の前におぼろげにあるテーマが本当に面白いものなのかを、なんとなくでもいいから書く前に理解しておくということだ。書く前に完成像を想像し、それが面白いかどうかを的確かつ客観的に判断し、執筆においてはいまの文章がその完成像にどれだけ近いのかをつねに意識して書き、それに近づけるように構成するという一連の作業ができるように、わたしはなっておきたい。

 

 むろんわたしはまだ文章が下手くそだから、思った通りにならないのは仕方がない。レベルは違えどプロだって同じような悩みを持っていて、思っていた通りに書いたら微妙になったとか、小説をシーンごとに書き始めたはいいがシーンとシーンが全然つながらないだとか、そういうことをよく言っている。けれど文章が面白くならないとして、課題はやっぱり執筆能力に存在していてほしい。それならば、練習でいくらでも伸ばせるだろうからだ。

 

 あるいは問題は発想力にあっても構わない。それは練習で伸ばせるものではないかもしれないが、思いつく内容のほうがダメダメなら、わたしには単にセンスがなかったということであきらめもつく。お前の書く文章がつまらないのはつまらない人間に面白いものは書けないからだと言われて完璧に納得できるのであれば、それが自然の摂理である。

 

 けれども問題はそのどちらにもないように見える。いや、きっとそのどちらにも十二分にあるのだが、それ以前に問題があるなら、問題が執筆能力だとか発想力だとか、そういうことを特定できる段階に至るのもまた難しいのだ。それ以前の問題とはもちろん良い文章になりうるものを良いと判定する能力であって、ひとことで言えば審美眼である。小説においての審美眼とはきっと面白い小説のあらすじを面白いと思える能力であり、それは作者だけではなく、まわりのあらゆる人間に要請される能力でもある。