まず死体を転がせ

まず死体を転がせ。近年の小説業界には、こんなことばがあると聞いたことがある。ミステリ小説では文字通りの意味だろうが、これはべつに、ミステリに限った話ではない。ミステリにおける死体に類するものをなにか、物語の最初に配置せよという意味だ。

 

その格言は示す。なによりも先にまず、読者になにか巨大なインパクトを与えよと。そうしなければ、まともに読んでなどもらえない。本屋でその本を手に取った読者に、最初の数ページで面白そうだと思ってもらえなければ……かれらはそのまま、本を閉じて棚に戻してしまうのだ。本当に語りたいことは、あとでじっくりと語ればいい――まず買ってもらえ。それからなら、読んでもらえる可能性なんていくらでもある。

 

この世の中で食べていくためには、芸術家であっても資本主義に迎合しなければならない。あの格言をはじめて聞いたとき、わたしはそんな悲観的なメッセージを受け取った覚えがある。社会からはなかなか自由になれないという事実に、そしてそれ以上に、作品の売れ行きが、そんな小手先の要素で決まってしまうということに。

 

本が面白いということと本が売れるということは別だということは、当時のわたしも知っていたように思う。よく売れている本で面白くないものはあるし、逆もたぶん、しかり。作者が良い作品だと思ったものがかならずしも大衆にウケるとは限らない――というのも一応、きっと理解していたと思う。すくなくとも金儲けのためには大衆に迎合する必要があるということくらいは、しっかりと分かっていたと思う。

 

けれど。売れる本を書きたくて、そのために大衆を味方につけたいとして。それでもなお、迎合する相手は、あくまで大衆であってほしかった。大衆の求めるカタルシス。大衆を安心させるハッピーエンド。大衆を泣かせる、お決まりの展開。売れる本を書くということがそういった、大衆にウケるストーリーを作るという意味なら、まだわたしは笑っていられたと思う。こんなものが売れるなんて、あいつら本当に単純だな、と。

 

しかしながら。例の格言は、ストーリー以前の段階に焦点を当てている。最初の数ページさえ面白く作れれば買ってもらえる、買ってもらえれば印税が入る。そこにあるのはもはや、大衆への迎合ですらない。読者の消費行動の予測という、行動経済学的分析への迎合だ。

 

わたしという人間が、文学的に高尚な話を読みたいよき読者だとしても。あるいはそう気取っているだけで、実際には単純な大衆のひとりにすぎなかったとしても。どちらにせよ、例の格言はわたしの要求には応えない。出版社の株主を除いて、だれの要求にも応えない。それでも人類は、わたしは、最初に死体が転がっている本を買ってしまう。それが自分のための工夫ではないと分かっていながら。

 

あの格言を聞いた当時、わたしはまだそれほど皮肉が板についていなかった。だからわたしは、資本主義のジレンマを面白がる代わりに、まずもどかしく思った。そんなくだらない理由で作品の構成に縛りがかけられるなんて、悲しいと思った。

 

でもわたしはいま、現に格言に従っている。この文章でわたしは、まず死体を転がせという死体をまず転がしたのだ。これが営利目的の文章ではない以上、わたしが迎合しているのは資本主義ではないだろうが……それでも悲しいことながら、文章の内容とは関係のないなにかに、きっと迎合している。