鍵括弧

「あの日」ぼくは、晩秋の夕焼けの空を見つめながら、「なにか漠然とした」将来への不安だとか、「とらえどころのない」人間関係の悩みだとか、とにかくそういう「触れれば崩れ落ちてしまうような」感情に身を任せていた。海辺のコンクリートに座って足を「造作なく」ばたつかせながら、「前にこの場所に来た頃の」自分の姿と重ね合わせ、ひとり「投げやりで、それでいて自己憐憫的な」格好で、いまの自分を「彼女」が見たら「どう思うだろう」、などと、「惨めな推測」を働かせていた。

 

「なにか」が水面に落ち、ぽつんと音を立てる。水面に広がる波紋に、ぼくはこれが涙だと気づく。「なにに対しての涙なのだろう」、ぼくにはその理由を言語化することができず、だがそれがなんであるにせよ「重大で、だが同時に取るに足らない、ありふれた悩み」に違いないことは、「半ば確信」していた。

 

「この世界」は一切の「具体性」を欠いている。「あの日の出来事」をぼくは思い出すことができず、「そもそもそんなものが存在したのかもわからない」。「昨日」起こった「例の」事件は「きっとぼくの人生を大きく変えるものになる」けれど、影響が「いったいどの程度のものになるのか」、ぼくには「てんで見当がつかない」。

 

「よく考えると」、ぼくは「なにも分かっていない、ただの青年」である。いや、「なにも決まっていない」と言ったほうが「正確かもしれない」。ぼくに「名前」はない。「誕生日」もない。「性別」も、「年齢」も、「経歴」もない。ぼくの履歴書の欄はすべて「あいまいで、まるで夢の中の本のように、なにが書かれているのか知ろうとすれば、インクはぼんやりとにじんで見えなくなってしまう」。

 

「こういう」自己紹介を、「ぼくはいつもしている」。「何者でもないぼくは、何者かになろうとしてでもなににもなれなくて、そもそも最初から何者にもなりえなかったことに気づく」。「ぼくについて世界が決めていることはなにひとつとしてないのに、さぞなにか決まっている風に世の中は動いていて、さもすべての裏になんらかの真実が設定されているかのようにぼくは語られ、書かれ、年頃の青年らしいと判断される」。

 

「ぼくは存在するのだろうか。鍵括弧付きで語られるぼくは、意味もなくそのことばを発する。自分の存在性について深く考えたことなどなく、ただひとはみなそれを疑うのだというだけの理由で、ぼくはぼく自身を疑っている。それが悩みであるらしいという理由だけでぼくはなにかについて悩み、実のところなにについて悩んでいるのかまったく見当もつかず、ただ夕陽やら海辺やらといった抽象的なロケーションに位置して、なにごとをも示唆しないポーズを取っている。

 

虚無、と呼べばぼくは具体的すぎるけれど、では虚無より具体的なものがなにかあるのかといえば、そういうことをぼくは問わない。脊髄反射、といえばまだ科学的すぎるだろうか、ぼくはこういうことばをいくらでも吐き出すことができて、けれどその中身は空っぽで、つまりこういう情景はなんの事実もなしにあらわれるもので、ぼくはその中にだけ存在し、抽象性の申し子であり、だからぼくは、絶対に存在することがないと同時に、絶対に存在している……」