ワナビーを抜けた先では

ひとりのワナビーが健全に成長し、憧れていた世界が実際にどうあるのかを理解したとき、そこにいるのはもはやワナビーではなく、れっきとしたひとりの仕事人だ。ワナビーワナビーのまま何も身につけずに終わる、というお決まりの軽蔑的パターンは、もはや彼らには適用不能だ。彼らを衝き動かした憧れの力は、彼らの技能を実際に成長させ……そして少なくともひとりのワナビーを、最初の本質的な壁の向こう側へと連れて行った。

 

仕事人と言えども、もちろん彼らは最高の仕事人ではない。彼らは初期研修を終わらせたに過ぎない――単に憧れの時期を脱却し、現実をようやく色眼鏡なしに見ることのできるようになっただけに過ぎない。技能の発達とはむしろそういう段階に至ってはじめてなされうるものであるわけで、その道での成功を夢見るのならば、ひとり立ちとは単なるスタートラインに過ぎないわけだ。

 

しかしながらそこには、これまでとは違った問題がある。ワナビーワナビーでなくなった先で、それでも道を歩ませる力は、ワナビーが必ず持っていたの憧れではないのだ。というのも、彼らはすでに憧れを脱却している。憧れを憧れのまま持ち続けて、曖昧で存在しない幻想の風景を追いながらその非存在に気づかないことこそが、ワナビーの定義であるからして、だ。

 

なりたかった存在に、一応はなることのできた存在。ワナビーをもじって、彼らをワンテッドビー、とでも言おうか。

 

よきワナビーがよきワンテッドビーになるとは限らない。ワナビー的憧れが満足されたワンテッドビーには、それ以上に進み続けるための新たな理由が必要だからだ。一旦の納得がいったプロジェクトへと火をつける、新しい点火剤。憧れでは決してないであろうそれは、いったいどのようなものだろうか?

 

なにか・・・をできるようになるということに、ワナビーは興味を持つ。

 

なに・・をできるようになるということに、ワンテッドビーは興味を持たねばならない。

 

抽象的な憧れのなかに生きてきた元ワナビーのなかにはまだ、具体的な憧れは宿らない。ワナビー的価値観からすれば、目の前のどの仕事も等しく魅力的なのだ。憧れという夢から醒め、現実の勝手を知ったワンテッドビーの目には、同じことがこういう風に映る――目の前のどの仕事も等しく、わざわざ興味を持つほどのものではない、と。

 

わたしたちはみな、何者かになりたかった。若き情熱を、なにかをすることに燃やし続けた。努力は実り、実際に何者かになった――「何者か」たちのなかで自らを高めていくための、そのスタートラインには立った。

 

だかそれから先は、なにをすればいいのだろう。

 

わたしたちに。

 

漠然とした憧れは既になく。具体的な何かへの好奇心もまた、なく。

 

そして。具体的な何かに好奇心を持っている自分というものへの憧れに再び火をつけるだけの若き体力もまた、わたしたちにはないのである。