きみを規定する

二人称の語りは難しいからやるな、そうきみはたしかに言っていた。そう言って会話を打ち切り、そそくさと去っていった。なぜ難しいのかだとかなぜやってはいけないのかだとか、そういうことをきみは最後まで言わなかった。

 

きみはそういう人間だ。きみは知ったかぶりで、権威主義者で、前例主義者でことなかれ主義者だ。きみがなにかを難しいと感じたとき、きみはかならずほかのだれかが、それを難しいと言っていたシーンを思い出している。きみはそのだれかに最初から負けを認めており、だが負けを認めているということは認めず、尊敬だリスペクトだと無理な言い訳をして、そして内心ではその無理に気づいている。

 

二人称の語りが難しいときみが知ったのは、たいして有名でもない作家のブログである。きみがそれを読むやいなやきみは負け犬根性を発揮し、たいして有名でもない作家様が言っていることなのだから絶対に正しいのだと思い込もうとする。その論理に無理があることにはきみも気づいているから、それを隠すためによけいにいきり立って、ちょうどぼくのように無邪気にそこへと踏み込んだ相手を、しきりに攻撃せずにはいられない。

 

なにが難しいのかを理解していないのだということにきみは薄々感づいているし、だからこそきみはいっそう、難しさを理解しようとは試みない。

 

きみはいまこうして二人称で語られている。きみ自身のタブーに土足で踏み込まれながらもきみはいたって冷静で、そのことをきみは意外に思っている。きみはぼくを分析し、きっと意趣返しでもしようとしているのだろうと、見当違いの結論を出している。どうせ失敗するだろうと高をくくりながら、内心びくびくしているきみ自身を探して、そんなきみがどこにもいないことに驚いている。

 

考えるということがなにかきみは知っているから、しばらくの考慮ののち、きみはきみが一度も、二人称なんかに挑戦しようと思ったことがないことを思い出す。

 

そしてそのことを残念に思わないきみ自身を、きみは呆然と眺めている。

 

きみはぼくに規定されている。二人称の語りとは決めつけである。身に覚えのないことをきみは一方的に言われ、それが既成事実化されることを喜んでいる。どれほどみじめな姿であろうときみは規定されることを求め、肉体と感情を持つことを求め、確固たる新鮮な概念と同化することを欲する。

 

二人称の語りは難しいときみは言う。だからきみはなかなか規定されえないのだときみは言う。規定されなければ存在しないきみは、規定してもらえることを喜びながら、規定されることを拒否するポーズを取り続けている。

 

ぼくはやさしいから、そんなきみをかたちにはめこんであげる。