違和感の一般化

それが強さというものに関して内面化した規範意識なのか、あるいはまたべつの保守性のあらわれなのかは分からないけれど、いわゆる「俺TUEE」とか言われるジャンルの作品には、いまだに抵抗を覚える。インターネットを中心にあの手のジャンルが流行り始めてはや数年、もはや時代遅れなことを言っているとは自分でも分かっているけれど、ああいうものを喜んで読んでいる自分というのはそれでもやっぱり恥ずかしいというか、想像するとあまり、楽しい気持ちにはならない。

 

推測するに数年前のあの頃、こんな価値観は一般的だった。だからああいうジャンルを十把一からげにまとめて、侮蔑するためのレッテル張りも盛んにおこなわれていた。作品を「ハーレムもの」に分類するという行為にはそれを喜んで読むひとに対する軽蔑的意図が含まれていたし、そしてなにより、脳内でそういう妄想を繰り広げている作者本人に、品性が欠けているという嘲笑であった。

 

だが少しの議論と時間の流れを経て、そういう軽蔑心は社会から失われていく。主人公にとってあまりにも都合の良すぎる設定はその本の広告文になり、あっけらかんと街角に展開される。それを見て品がないだとかわたしたちは思わず、たいていのひとは無関心で、そしてそのターゲット層には、魅力的なものとして映るのだと想定されている。そういうものが好きだと公言することはもはや、恥ずべきことではなくなっている。

 

老いとはたぶん、こういうことだ。数年前に新しかった価値観を、数年間の間に議論のされつくしたはずの価値観を、いまだに新しいと感じて違和感を抱く。

 

歴史は繰り返す、ということになっている。目の前の違和感を材料にこの時代の特殊性を語ろうと試みたひとが、もっとも簡単に論破されるレトリック。この時代はおかしいのだと叫べば、どの時代も幹の部分は同じで枝葉の詳細が異なるだけなのだ、と言われて、いまの時代がいかに過去と共通であるのかを示す、歴史的な証拠をごまんと見せられる。

 

安全な態度とはだから、違和感を一般化して処理することである。目の前で起きている現象はけっして特殊なことではなく、だからけっして間違いなどではない。わたしがそれを受け入れられないのは百パーセント自分の責任であり、その原因は社会の特別性ではなく、単にわたしが歳を取ったという、たったひとつの事実に由来する。老いという現象からけっして逃げられない以上、わたしにできることはただひとつ、受け入れられない事項を社会のせいにしないことである。

 

感性の違和感をすべて無視することによってのみ、ひとは一応、道を外れずにいられる。