かわいそうの比較 ②

命の価値に差があるというのは公然の秘密だ。命の選択はよくないと誰もが口にはしつつ、実際のところ選択は行っている。そもそも、差がないとしきりに叫ばれている理由は、そこに差があるからでしかありえないわけだ。差を設けているという事実に目を背けて生きていけるのは、単にその差に関する評価が、具体的な行動としてあらわれる機会がめったにないからにほかならない。

 

ロッコ問題。親しい一人と見知らぬ多人数のどちらの命を優先するかというこの思考実験が、蒸し返され続けるのには理由がある。要するに、だれも態度を決めていないのだ。ほとんどのひとは、問題にあるような状況にこれまで置かれたことがないし、これから置かれるとも思っていない。だからこそ、人命の価値の差異という問題を、わたしたちは先送りにできる。そうしたところで、すぐに問題は起こらないから。

 

ロッコ問題とはジレンマである。どちらを選んでも、そうしなければ助かっていたはずのひとを殺すことになるからだ。けれども考えてみれば、大して難しい問題ではないはずなのだ。どちらを殺してどちらを助けるか。そんなものは個人の価値判断の問題にほかならないわけで、各々が自分なりの答えを出せばいいのだ。個人がそれぞれ、自分自身の価値観を持っている。そのことじたいは、責められるようなことではない。

 

それでもトロッコ問題がジレンマでいられるのは、命の価値を比較することそれじたいが、なにか冒涜的な意味を帯びているからにほかならない。だってそうでもなければ、簡単な問題なはずなのだから。ひとそれぞれ考え方は違うよね、とまとめて済まされるべき話なのだから。

 

そして。命の価値に差があり、だれもがそれを本当は理解している以上、どちらを殺すかに関する態度は簡単に決められるはずだ。価値を比較して、低いほうを轢く。それだけの話だ。わたし個人の話をするなら、五人のほうを轢く。身近な人間のほうが大切だとわたしは判断するからだ。わたしはそう決めているし、決めているということはけっして、恥ずべきことでもなんでもないと信じている。すくなくとも、まだマシなことではあるはずだ。命の比較をする自分という実像から逃げ続け、ジレンマであるべきでないなにかをジレンマと呼び続けるよりは、よっぽど。

 

命の価値の違いとは、個々人の感性の問題だ。その感性が合わさって、社会的な価値評価になる。事件や天災で子供が死んだとき、それがことさらに取り上げられるのは、多くのひとが子供の死をよりかわいそうだと感じるからに過ぎない。子供の命の価値のほうを、みなが高く評価するからに過ぎない。「失われた時間がより長い」とか言って、無理やりに理屈をつけようとするひともいるけれど、それは考えすぎというものだ。建前に矛盾しないように理屈をこね回すことほど無駄なことはなかなかない。それなら多少冒涜的でも、シンプルに理解しておいたほうがずっといい。