正気を疑う

「正気を疑う」ということばは字面に反して、正気という対象を疑うという意味ではない。知っての通りこれは「正気かどうかを疑う」という意味で、つまり疑いの対象は気ではなく人間だ。ネイティブとはこういう表現を理解するのにわざわざ文章の構造を解析したりしない人間のことだから、あなたが日本語の母語話者ならきっと、そんなことは気にするまでもないことだろう。「正気を疑う」と聞いてわたしたちが想像するのはあくまで、信じられないような行動を取る人間のことを見聞きした人間のほうだ。けっして、正気というものの存在や価値を疑いはじめてしまった可哀そうな人間のことではない。

 

さてでも、考えてみれば正気とは疑わしいものだ。わたしたちのまわりにいるほとんどの人間は正気だけれど、べつにそのひとたちの行動のすべてが腑に落ちるわけではない。明らかにおかしな、常識に外れる行動の話はべつにして――世の中で常識的とされる行動でも、わたしたちはすべてが理解できるわけではない。というより、ちゃんと理解できる他人なんてほとんどいない。そして理解できないのにもかかわらず、わたしたちはその相手を正気だと判断する。

 

すべては理解可能だと信じるほど、わたしはもう若くない。理解できないものを理解しようという無謀な努力に身を捧げるほど、わたしにはもう気力がない。他人というものは理解できず、自分ならけっしてしないであろう行動を平気で行うということは誰もが知っている。そしてそれでも、世の中は回っている。わたしはそういう世の中を赦している。

 

言うなればわたしたちは、目の前の謎を見て見ぬふりをしている――目の前にいる相手がとっている行動がどんなに理解不能でも、常識的でさえあればそれでいいことにしている。けれどやはり目の前に謎があり、無視できない暗さの深淵を見せつけ続けてきている以上、やはり疑い続けるのが健全な態度ではなかろうか。すべての謎に答えを出せると信じた頃の情熱は、人間、持ち続けているべきではなかろうか。

 

狂気を疑うのは簡単だ。理解不能で非常識ならば、それだけで疑う理由になる。たとえば通り魔殺人と隣人愛が、かりに同じくらい理解できないものだったとしよう(実際にきっと、そう考えているひとはたくさんいる)。なんで関係ないひとを殺したんだろうと疑うのはきわめて正当な行為だし、実際に誰もが気にしている。なんで関係ないひとを愛したんだろうという問いは反面、そう普通に問われるものではない。

 

そして。後者の問いを問い続けようと志すほどの青さはもうわたしにはない。世の中にはそういうひともいるのだとみんな受け入れているし、わたしだってそれは受け入れる。けれどその問いが前者の問いと同じくらいに成立している問いであると認識することくらいは、しても罰は当たるまい。