ゴミ拾いと承認欲求

海外のスタジアムで、日本人がゴミを拾った。試合が終わり、浮足立った感情の余韻がまだずっしりと残っているのにも関わらず、かれらは現場のための行動をした。その様子を海外のメディアが撮影し、美しい行動として記事にした。その記事を日本メディアがかいつまんで翻訳し、どこの国のなんというメディアのものなのかという情報とともに日本語で拡散した。日本にいる日本人はその伝聞を読んで、日本人の素晴らしき精神性が海外に認められたのだと言って自己満足に浸った。

 

大きな大会があると、毎回この流れが繰り広げられる。判で押したように日本人はゴミを拾い、判で押したように日本人は民族性を誇る。いつもいつも、この繰り返し。あまりに毎回一緒だから、さすがに飽きてこないのかとも思えてくる。けれどかれらは、わたしたちは、絶対に飽きることがない。誇らしい思いは、何度味わってもいいものだからだ。

 

さて。けれど考えてみれば、わたしたちはべつに普段からゴミを拾う民族ではない。自分で出したゴミは持って帰るひとが多いだろうけれど、他人のやったことにまでわざわざ責任を取ろうとするようなわたしたちではない。野球を見に行くことはそれなりにあるわたしだけれど、試合後にゴミなんて拾ったことがない。拾っている集団を見たこともない。日常的に拾っている集団がいると聞いたためしもまた、ない。そんなわたしが非国民かと言えば、まったくそうとは言えない。

 

つまり。海外で称賛されているか、すくなくともされていることになっているゴミ拾いという行為は、けっしてわたしたちの本来の姿ではないわけだ。日本人の多くが日本人としてのアイデンティティの拠り所にしている美しき精神性は、わたしたちがもともと持っている心ではなく、演じられたものにすぎないわけだ。わたしたちの持つ歴史書には、行動の結果として褒められたと記述されている。けれど実態はおそらく、褒められるために行動している。褒められた結果として、それが慣習になっている。

 

ではそもそも、どうしてそんな慣習がはじまったのか。

 

鶏が先か、卵が先か。ゴミ拾いが先か、承認欲求が先か。より悪い方を現実だと思い込む習慣がわたしたちにはあるけれど、おそらく今回はそうではない。たぶん褒められるよりも前に、ゴミを拾いはじめた日本人がいたのだろうとわたしは思う。

 

そのひとの精神性については、とりあえずおいておくことにしよう。きっと、実際に美しい心の持ち主だったのだろう。日本人全員の心が美しいわけではないが、日本人の中には心美しい人間もいる。どうせ真偽など確かめようがないのだ、そのひとの伝説については、めいめいが好き勝手に信じていればいい。

 

けれどつづくひとにとっては、きっと承認欲求が先にあった。あるいは単に、拾うというローカルルールに従った。ルールがかりに承認欲求から生まれたものだったとして、かれらはそれを気にしない。みなが拾っているから、拾うものなのだろうと思っている。事実はきっとこんなところだろう、とわたしは思う。

 

ゴミを拾うという行為は、それでも美しい精神性の表れなのだろうか。

 

見られているから行動する。伝統的な価値観では、これは悪いこととされてきた。見られていようがいなかろうが、同じように行動しなさい。お天道様は見ていますよとわたしたちは教わった。それを是とするか古いと切って捨てるかはさておき、この時代に日本に生まれたのなら、こういう価値観が存在するということくらいはみな知っているだろう。そしてかりにも、日本人の美しい心なるものを賞賛したいのなら。その賛辞はきっと、このような旧来の価値観に依拠しているべきだろう。

 

だから。ゴミを拾う日本人を賞賛する日本人という構図には、なかなか埋めがたい矛盾がある。心の美を鑑賞するにあたって、その背後に見え隠れする美しくない心をあえて無視する必要がある。それこそがきっと、わたしがあの構図に覚えている、なんともむずむずとする気分の正体なのだろう、と思う。