数学を使って数学をする ①

数えればもうあれは七年前、学部後期を過ごす学科をどうしようか悩んでいたころ、学問と自分がどうかかわりたいのかについて、しばらく自問したことがある。あらゆる進路を検討する多くの大学生とは違い、数学を専門にするのだということはもう既成事実だったのだけれど、ではわたしが数学のどういう部分を好んでいるのかということについては、年相応の理解しか芽生えていなかった。

 

数学をしたいのか、数学を使いたいのか。当時のわたしが立てた問いはこれだった。そのどちらも違う気がしてすぐには結論が出ず、しばらくの刻を経てようやく、答えらしきものにたどり着いた記憶がある。「数学を使って数学をしたい」というのが当時のわたしが導き出した結論で、自分自身で導き出したそのことばを反芻して、これが真実だと深く納得した、そんな経験がある。

 

とはいえその答えは、いま見るとちんぷんかんぷんだ。当時の思考を思い返せばまあ言わんとしていることは分かるのだが、客観的に見て、あまり明確な答えだとは言えない。二択を迫られているのに、両方を答えにするのはズルじゃないか。というかそもそも、「数学をする」とか「数学を使う」とかいうのは、いったいなんのことを指しているのか。

 

当時のわたしは、それに対して明確な言語化を与えなかった。与える必要もないと思っていた。だが書くといういとなみを始めたからか、いまのわたしはそれらの概念を、明確に言語化され、定義されるべきものだと感じている。

 

せっかくだし、当時のことを思い出しがてら、定義を与えてみることにしよう。

 

「数学をする」ということばには、行為主の立場によっていくつかの意味がある。数学をあまりしないひとにとって最も一般的な用法はおそらく受験勉強で、大学受験の参考書を開いて、載っている問題を解くことだ。目的がなんであるかを捨象し、もうすこし視野を広げてみたところで、世の中のほとんどの場面で、数学とは問題を解く行動のことだ。

 

数学を専門に学ぶひとにとって、「数学をする」が意味するものは違う。それは概念を知ることであって、概念がどうして定義されたのかを理解することであって、定理と定理がどうつながっているかを把握することである。演習問題を解くことはたしかに理解の助けにはなるだろうけれど、目的は問題を解けるようになることではなく、本の中身を理解することだ。問題を解くことを目的とした行為と、かれらは自分たちの「する」を明確に区別する。

 

そして研究者にとって「数学をする」とはときおり、それらの本に載るような内容を、新しく発見することでもある。