テクニカルタームと直感 ②

良いテクニカルタームとは、それが実際になにを表しているのかを知らずとも、指しているものに関するなんらかの直感的な示唆を与えてくれるもののことだろう。

 

その点で言えば、「捏ねる」とは良い表現だ。「捏ねる」がなにを指しているかをあえて質問しなくても、打席に立った経験が少しあるひとなら、自然に正体を理解できる。野球経験者の多くはそうして「捏ねる」という概念を学び、そしてこのことばは具体的な定義がほとんど陽に語られることなしに、地域から地域へ、世代から世代へと、コンセンサスとして引き継がれてゆく。

 

にもかかわらず。「捏ねる」のなにが「捏ねる」なのかと聞かれれば、きっとわたしたちの多くは、ぴしっとした説明を与えることはできない。ハンバーグを捏ねる操作とどこが同じなのか、しばらく考えればおぼろげながら分かってくるかもしれないが、考えないことには、やっぱりよく分からない。確かめるためにわたしは何度か慣れた動作を繰り返し、しばらくののちようやく、手首を返すときに行う左手を強く握りしめながらひねるという動作が、生地やパテを揉み込む動作となんだか似ているように思えてくる。

 

ここまでぼんやりとした共通点だと、辞書的な考えは通じない。「捏ねる」を「捏ねる」だと理解するために必要なのは「捏ねる」ということばの辞書上での意味ではなく、その背後に潜んでいるイメージ、繊細な感覚なのだ。ネイティブスピーカーがやっとなんとか共通して持っているかもしれない感覚、おそらく母語話者でもなければ一生たどり着けないだろうことばづかいの境地。そういうことばにもならない感覚が、野球という現実の競技におけるコミュニケーションツールを構成している。

 

テクニカルタームにわたしはよく触れる。野球はずいぶん前に引退してしまったが、その代わり、数学の研究に携わっている。そして困ったことに、ある程度以上新しい数学のことばには、適切な和訳がない。

 

数学者は野球のコーチと違い、自分の使うことばを明確に定義しなければ気が済まない。だから幸いなことに「捏ねる」なんていうあいまいな概念は出てこないし、かりにそんなことばで表現される概念があったところで、定義に立ち返って読めばどうにかなる。それでも英語のネイティブには、おそらく共通の感覚がある。「捏ねる」が定義も説明もされないまま驚くべき割合のひとに受け入れられるのと同じように、きっとある種の数学概念に関しては、けっこうな数のひとが、定義を読むこともなしに、共通の感覚を掴んでいるのだろう。