割り切りと喪失

理論の研究者なら、研究対象をどこまでも深く掘り下げねばならない。目指すべきは深遠、それも世界でたったひとり、自分だけが到達しうるだろう場所だ。ときに先人の力を借り、ときに自分の脳味噌を使いながら、手探りで進み続けた先の孤独。その孤独こそが安住の地であり、わたしたちがそうあるべき人生の形なのだ。

 

……と、そんな正義を真に受けていた頃がわたしにもあった。いまはまだそんな孤高にはいないけれど、ゆくゆくはそうなるべきなのだと考えた時期もあった。いま現在でこそ、わたしはそんなものは欺瞞だと思っている。けれど人口に膾炙したなにかをひとが欺瞞と断ずるのは、それが正しい考えである可能性を長きにわたって真剣に吟味してみたことがあるからだ。

 

深遠なる真理を求めよという内圧からわたしが自由になれたのは、おそらくつい一年ほど前のことだろう。というのもわたしには、そんな内圧に関することをこの日記に書いた覚えがあるのだ。深遠な理論を正義とみなしつつも、それをまったく面白いと思えない葛藤をわたしは記していた。その葛藤の一部は、目指すべき深みへ向けて進み始める前兆が、わたしの中にまったく見いだせないことにも根差していた。

 

そんな迷いと、わたしは遂に訣別した。一度断ち切ってしまえばすこぶる楽なもので、いまのわたしはもう、深遠にまったく憧れていない。世の中にはわたしと違い、自分の道をどこまでも深く追求していくのが得意な人間がいる。それならそういうことは、得意な人間に任せてやるのがいい。そうやって、割り切っている。

 

目先の問題が解ければわたしは満足だし、むしろそれこそがやりたいことなのだ。それは研究の真の喜びではないと語る奴らは……そうだな、なにを喜びだと思うかという自分の感性を、ただ他人に押し付けているだけに過ぎない。つまり、気にしなくていい。

 

さて。ではなぜわたしは、わざわざこんなことを書くのか。もう気にしていないということを殊更に強調しなければならないのは、わたしにまだ未練があるからではないのか。そうではないとわたしは言い切れるつもりだ。けれどやはり、ではなぜ語ろうと思ったのか。

 

たぶんそれはわたしが、悩みと一緒に失ったものがあるからだろう。それまで持ち続けていたなにかが、確実に消え去ってしまったことを実感しているからだろう。

 

では、それは。

 

研究者であることへの、それは憧れかもしれない。研究をライフワークではなく、数ある賃金労働のひとつとしてのみ捉えるようになったことへの。あるいはそれは、敵かもしれない。自分のやり方に文句をつけてくる相手への、敵愾心というモチベーションだ。それともあるいは、研究に存在意義を求める心かもしれない。

 

その感情たちはきっと、悩みを取り戻せば取り返せるかもしれない。けれどわたしには、そのために再び悩むだけのやる気はない。否、それでいいのだ。何かを割り切るとは、常に喪失とセットなのだから。