認識の停滞

二十歳のころの考え方をひとは、死ぬまでずっとしつづけるという。

 

それはある意味でいいニュースであり、そして嘘でもある。逆にある意味で悪いニュースでもあり、それゆえに真実でもある。どちらにせよ二十六のわたしはまだそれを真実だと断ずることはできず、そしてある意味では嘘だということもまた、すでに知っている。

 

二十歳のころ、悩みとはつねに身近な存在であった。将来について悩み、自分自身の弱さについて悩み、合理的と分かっている行動を自分が取れないという矛盾について悩み、そしていかなる成果を残そうとも何百億年ののちにはわたしのすべてが歴史から消え去っていることについて、ずっと無益に悩み続けた。無益な悩みであると理解しながらに悩み続けてしまう自分についてまた悩み、だが同時に近い将来、悩み疲れた自分がいまだ中途半端なままに、結論の出ていない悩みを無造作に放り出してしまうであろうことを、悩みそのものよりも深く恐れた。

 

結果はもちろん、恐れた通りになった。青春の悩みはもはやわたしを傷つけない。何百億年ののちに自分が歴史から消え去ることも、それどころか死後数十年のうちにわずかな記録の染みにすぎなくなることも、とくに怖いとは思わなくなった。合理的でない自分をわたしは受け入れ、将来はなるようにしかならないと達観し、弱さについては開き直った。二十歳のわたしが見たなら嫌な顔をするであろうわたしは、二十歳のころより間違いなく幸せで、そしてそのほうがいいのだということを、二十歳のわたしはきっと理屈の上では理解してくれる。

 

それらの悩みが再びぶり返すことはない。二十四の、日記をはじめた頃のわたしには、きっとゆえに希望があった。学術体系としての数学が年月とともに上へ上へと積み上げられてゆくのと同じように、人生の悩みや思索にも体系というものがあり、ある悩みに折り合いをつければ、すぐにより高次の悩みが顔を出す。そうしていくつもの課題を建設的に処理しつづければ、わたし自身の魂のステージのようなものが、青天井に上がってゆくのだと信じた。書くことに折り合いをつける効果があると理解していたわたしは、わたし自身の精神的な上昇を加速したくて、書くという試みを始めたのだ。

 

だが最近覚えるのは、その上昇もどうやら止まりつつあるという実感だ。

 

最近のわたしは悩んでいない。社会を分析し、知性の正体について洞察をめぐらせて入るとはいえ、悩みはない。二十四と二十五のわたしを衝き動かした精神的成長への衝動はなく、あのころのようなことを書こうとしても、すでに書いたようなことばかり。新しいなにかを書こうとしても結局、とうに折り合いをつけた問題に対する、固まった認識を再確認するだけ。

 

二十歳のころの考え方をひとは、死ぬまでずっとしつづけると聞いた。わたしにとってそれは嘘だった、悩みの内容は確実に変わった。だがあれから六年が経ち、今度こそわたしは止まったのかもしれない。

 

二十六のころの考え方をわたしは、これからずっとしつづけるのかもしれない。