証明はかならず正しい

「○○は××だと科学的に証明された」「○○の仕組みを科学が解明した」――何気なくインターネットを眺めていると、ときおりこんな文面が目に入る。記事を開けば中身は研究の紹介で、どこの研究チームがどういう実験をしてどういう結論を出したのかが、素人にもわかる範囲で書かれている。専門以外のことに対しては素人であるわたしたちは、それを読んで分かった気になる。

 

そう考えると、科学記者とはなかなか偉大なものだ。最先端の研究とは総じて難しいもので、学会発表なんてものは、自分の専門分野であっても分からないことだらけなのだ。いや、分からないことだらけ、だなんて甘いもんじゃない。ほとんどの発表は、白状するなら、本当になにひとつ分からない。しかし科学記者はそんな意味不明なものを、素人が理解できるように噛み砕いてくれる。理解できるのは表層だけとはいえ、それだけでもうすごいことだ。

 

さて。けれどもしかすると、それはわたしが研究者だからかもしれない。つまり、研究というものがどう行われ、どういうふうに結果を発表するものなのかを。「科学的に証明された」「科学が解明した」と言ったとき、わたしたちはそれがなにを意味するか理解できる。科学の定めるプロセスに基づいた実験や、科学が許す論理に基づいた演繹を繰り返すことで、特定の結果が正しいと結論付けるに足る科学的証拠を手に入れるという意味だ。

 

けれどおそらく、市井のひとびとにそういう認識はない。あくまで推測になるが、研究という行為に深いかかわりを持たなかったひとびとにとって、科学とは絶対的な信仰の対象だろう。あるいは、名前を変えただけの占いの一種か。いずれにせよ一種のひとにとって、「科学的に証明された」こととは単に、完全に正しい真実だ。

 

宗教の敬虔な信者が神の存在を片時も疑わないのとまったく同じように、かれらはきっと科学の預言を信じている。神を感じることで満足し、客観視に基づいて神を解体してみようとはしないのと同じように、かれらは科学という体系をあえて詳細に眺めようとしない。そして詳細に眺めてみなければきっと、「科学的な証明」が具体的になにを指すのか知ることなどありえないはずだ。そもそも、そこに知るべきなにかがあるなどとは、考え付きもしないはずだ。

 

宗教を排し、かわりに科学を妄信する。そんな近代的な感性のまがい物を、きっとわたしたちは利用している。「科学的な証明」が与えられたのだから、正しい。ほとんどのひとがそういうふうに単純すぎる理解をしてしまうからこそ、科学は説得力を持っているのだろう。そしてだからこそ、科学の時代がやってきたのだろう。