めんどくさい科学

「○○は××であることが科学的に解明されました」――漫然とインターネットを眺めていると、こんな言い回しを目にすることがある。ふーん、と思った勢いで何気なくページを開くと、そこには研究のあらましが書かれている。○○の正体はこれまで知られていなかった。どこどこ大学の研究チームがそれに目をつけ、対照実験をおこなった。かれらはなんやかんやという事実に気づき、それを論文にまとめた。そして、プレスリリースとして発表した。

 

端的に言えば、科学の指定するプロセスにかれらは則った。すばらしいことだ。科学という仕組みは、誤った情報が正しいと信じ込まれないようにするためにかなりの注意と労力を割いている。論文は基本的に査読にまわり、いわゆるトンデモな主張はそこで容赦なく落とされる。査読者のたいていはまともな研究者で、つまり世界でもっとも、その分野の論文を見る目の肥えた人間だ。

 

そして思うに。間違いから科学を守るいちばんの仕掛けは、それ以前のところにある。というのも、科学のプロセスというのは非常に面倒くさい。だから特別な事情のない限り、わざわざ論文の体裁を整えて提出しようなどと言う気にはならないのだ。理論の人間であるわたしは、残念ながらただしい実験の手法というものに詳しくない。けれど、きっとそこにはあらゆる面倒がある。統計学的面倒、安全上の面倒、そして分野によっては、生物あるいは人間の倫理に関する巨大な面倒。むろん実験をしないからと言って、面倒が発生しないということは断じてない。論文を書くという行為にはさまざまな作法があり……それを身につけるのは、論文に書く内容を思いつき、論理を組立てるのと同等以上に難しい。

 

常人の詐欺や狂人の妄想は、ほとんどその段階で排除されているように見える。それら多種多様な面倒は、意図してか偶然か、アカデミアという村を外界から守るための防壁として機能している。もちろんそれは、外敵だけを傷つけるものではない。というより、中にいる研究者たちがいちばん迷惑をこうむっているのだ。なにせ論文を出すのがわたしたちの仕事で、そして論文を出すためには、それらの面倒な問題をすべてクリアしなければならないからだ。

 

面倒なのはいやだ。わたしはいやだ、きっとだれだっていやだ。引用なんてもの、なぜちゃんと書かなきゃいけないんだ。主結果とその証明を述べるのに、なぜイントロとかいう、とくに関係のない前置きをぐだぐだと書き続けねばならぬのだ。そもそも、正しいと分かっていることをなぜいちいち証明せねばならぬのだ。面倒が治安維持の役に立っていると十分知っているとはいえ、そう思うことは珍しくない。

 

そして、ふと思ったことだが。先行研究に対する敬意とかいうものは、案外こういうところから湧いてくるのかもしれない。内容とは関係なく、どの会議に通ったかでもなく、その論文が研究の流れのどこに位置づけられてきたかでもまったくなく。これが論文になったその過程で、著者たちは多大なる面倒を強いられている。作られたマイナスをゼロに戻すだけの、そんなつまらなくて非生産的な作業に対してなら、わたしは敬意を払える気がする。