血液型占い

血液型占いが非科学的だということは誰にでもわかる。現代に生きるおおらかで科学的な人間は、そう分かったうえで楽しんでいる。現代に生きるおおらかだか科学的ではない人間は、そう分かってはいないけれども楽しんでいる。そして科学的だがおおらかではない人間は、そう分かったうえで、占いという行為の無意味さを非難することに己の人生を賭けている。科学的でもおおらかでもない人間は……正直、よくわからない。関わりを断っているから。

 

現代に生きる科学的な人間であるわたしはとりあえず、多くの非科学的なものを非科学的だと認識することができる。もう少し正確に言えば、非科学的と認識したものについて、科学的判断の材料にしないように心がけることができる。そしてわたしは一応、多くの判断を科学的と呼べる方法で下しているつもりだ。なにがどれくらいの可能性で起こりうるかという見積もりから、極力迷信の影響を排するように努力しているつもりだ。

 

さて。けれど科学的とはなんだろう。血液型占いが非科学的なのは認めるとして、それはいったい、どういう基準で非科学的なのか。血液型という対象そのものはきわめて科学的なのに、どうして性格や運勢にひもづけて考えた瞬間、それは科学ではなくなってしまうのだろうか?

 

ひとつの考えられる可能性は、血液型占いを肯定する実験結果がないことだ。科学的手段にのっとって検証された、血液型と性格との関連性に関する論文が一切ないということだ。より正確を期して言えば、わたしはそんな論文を知らないし存在すると聞いたこともないということだ。

 

けれどおそらく、それはわたしたちがなにかを非科学的だと断罪する証拠にはならない。というのも、科学と非科学を峻別するために、論文が本当に存在しないかどうかを気にしているひとなどいないからだ。なにかが非科学的だということには、おそらくよりプリミティブな基準がある。非科学的かどうかは、アカデミアが正当と認めるかどうかなどといった、権威の発言に左右される問題ではないはずだ。

 

わたしたちは、わたしたち自身が非科学的だと「思う」ものを非科学的と考える。科学が否定したものではなく、自分自身が否定したものを。血液型占いが非科学的なのは、心理学者が血液型と性格のデータを集めて相関を調べたからではない。血液型に性格が左右されるわけがないと、そしてそんなことが科学で検証されるはずがないと、わたしたちが信じているからこそ非科学的なのだ。

 

よく考えてみれば、いまのはなかなか危うい議論だ。頭をまっさらにして考え直してほしいのだが、はたして血液型は本当に、性格に関係することがあり得ないだろうか? 血液型と正確に関係があるという結論を出す分野が、科学と呼ばれることは本当にあり得ないだろうか? 血液型が遺伝で決まり性格も遺伝で決まるという結論を出す実験はまず存在しえないと、本当に言いきれるだろうか? 実際に検証してみる前に?

 

すくなくとも、わたしは言いきれない。血液型占いを正当化する科学が存在しないことを、わたしは直感では理解できない。それでもわたしは、血液型占いを非科学的だと考える。そう信じている。

 

それはきっと。わたしはまわりに流されているのだ。わたしたちは科学への無批判なしもべでなければならない。血液型占いは、そのための踏絵なのだ。