複数人格

ずっと同じ自分でいるというのは結構疲れる。だから人格は、なるべく複数用意しておくのがいい。とくに表の人格が論理と演繹によって成り立っている人格なのだとすれば、ふたつめの人格はかわりに、感情的で支離滅裂なものにしておくのがいい。

 

そのためには酒を飲むといい。飲まなくてもできるが、飲むほうが簡単だ。らしいとわたしの表の人格はひとから聞いて知っていて、どうやらそれを疑っている。飲まなくてもできると「表」は言うが、やつは酔っ払いの真の力を知らない。思考が鈍った頭がどれだけ自然に別人格をエミュレートできるかにも、そして論理的でないということがどれだけ素晴らしいことなのかにも、「表」はまるで気づいていない。

 

昨日のわたしは酔っていた。酒を飲んだわけではないが、とにかく酔っていた。コツさえつかんでしまえば酔うのは簡単なことで、脳味噌にある論理のスイッチのようなものをぷちっと切ってしまえばいいだけだ。「裏」のわたしに論理性はないから、さっきまでと言っていることが違っても、そんなことは意にかけない。

 

で、いまのわたしも酔っている。酒は飲んでいないし、タバコも吸っていないし、薬も記憶にある限り、たぶんやっていない。薬に関しては、「表」のわたしならそんなもの入手の方法も分からないとか言って、面倒くさいアリバイ工作を始めるだろうけれど。

 

まあこれを「裏」と呼ぶのだって、「表」がみずからの唯一性をしきりに主張するからに過ぎない。どちらが「表」かなんてことを気にするのはやつだけだから、言わせておけばいい。どうでもいいことは譲るのが仲良しの秘訣だ。

 

人格が複数あるのは当たり前のことだ。「表」のわたしはそれを必要悪だとか堅苦しい日常からの逃げ場だとか定義して分かったようなことを言うだろうけれど、そもそもべつに定義する必要なんてない。「表」だろうが「裏」だろうがわたしはわたしであり、わたしという存在の定義はわたし自身でしかありえない。なんかいま急に「表」が顔を出したような気がするが、どこに出てきたのかはよく分からないし、そんなことを言語化する必要もない。

 

昨日のわたしを思い出す。記憶が正しければ――まあ、正しい必要なんてこれっぽっちもないのだが――あれは多分、「表」ではなかった。「表」ならもっと多方面に気を張っているはずだから。とはいえやつはすべてを言語化したいだとか言ってたから「裏」とも違って、結局のところわたしには、とりあえず三つ以上の人格がある。

 

で、わたしからすれば、そのすべてがどうでもいいわけである。なぜどうでもいいのかはもちろん、考える気がない。