激しさの不在

まったく共感できない小説というものも、この世にはある。

 

それらはもちろん、人間の手で書かれている。わたしが共感できないからと言って一般的に見て駄作かというとそんなこともなく、そのいくつかはそれなりに話題になり、それなりに売れている。つまり単純にわたしの感性に合わなかったということで、世の中にいろいろな感性がある以上、そういうことは往々にして起こりうる。

 

そういう作品をわたしは、人間的な作品だと判断できるだろうか。それを AI が書いたのだと言ってだれかが持ってきたとき、すべて読み終わった後で、そんなわけはないと言い切れるだろうか。人生や社会に関する深い洞察が書かれているような見た目をして、読んでみるとすべてが陳腐に見えたり、あるいはなにひとつ理解できなかったりするものの裏に、わたしは人間の知性を見出せるだろうか。

 

現段階では、おそらくできると思う。AI の文章にはなんというか、どの方向にも振り切れることのできないもどかしさ、表現というものの中央付近で自らに向けられるすべての視線をのらりくらりと受け流す不定形のなにかのような、そんなとらえどころのない退屈さがある。人間の作にそれはなく、たとえまったく共感できなかったところで、細部のいずこかにはきっと、どちらかに振り切れんとする激しさのようなものが宿っている。

 

ような気が、する。自信は、ない。

 

激しさの正体とはなんだろう。ともすればそれは論理性なのかもしれない。論理と論理を論理的に組合わせればときに直感に反する結論が得られるものであり、そして AI は、直感に反するなにごとをもしない。やつらは論理が苦手だから。

 

あるいはそれは、ステレオタイプに対する反逆なのかもしれない。なにかを成し遂げれば喜ぶし友人を亡くせば悲しむ、葛藤の存在しない感情に、アンチテーゼを突き付けるものなのかもしれない。なにかを成し遂げつつもみずからの過去を悔やみ、友人を亡くしつつ奇妙に平気でいる、人間のそんな複雑な機微を書けるのは、人間だけなのかもしれない。

 

さらに言えば、激しさとは具体性なのかもしれない。AI はなんだか、抽象論を好む傾向にある。ローカルな問題に一般的な正義を持ち出し、目の前の状況をすでに語りつくされた議論へと帰着し、陳腐な議論を延々と繰り返す。それがあたかも、まったく新しいものであるかのように。

 

だがそのどれもは、人間の文章の特徴ではありえないだろうか? それらすべての基準で AI と判定される文章を、わたしは見てこなかっただろうか?

 

いいや、たくさん見てきたはずだ。ということは。

 

人間には感情がある。言語モデル以上のなにかがあると、少なくないひとが信じている。けれどもその感情の一部は、わたしにとって、きわめて無機的に見えるものなのかもしれない。