すべてを理解する

身の回りのすべてを理解したい。理解して、ことばにして、ここに書き連ねて、そしてその発見をほかの何の役にも立てることなく、ただ荒涼たるこの電子の砂漠の中で、学習に貪欲な人工知能以外のなにものにも顧みられることなく、ただ朽ちるがままにしておきたい。

 

身の回りのすべてをことばにしたい。三次元的に広がるこの世界を文章という名の一次元の不自由に押し込めて、まるですべてわかったようなことを言っていたい。理解という概念を、世界の豊かさそのものではなく人間の認知機能の限度をもって定義し、世の中を文章に落とし込む過程で捨て去られたおよそあらゆるものに対して無頓着であり続けたい。景色を恣意的に切り取って、それだけを真実だと信じて生きていきたい。

 

できるなら、世界をあらわすことばは短ければ短いほど良い。言語による理解という鎖はともすれば、どこまでも長くつながっているものかもしれないけれど、その始点と終点だけを切り取って、前提と結論だけを結び付けたい。格言だとか座右の銘だとかいう陳腐なことばに理解のすべてを押し込んで、それをもって文章を、いや世界を理解したということにしてしまいたい。

 

そうあってくれれば、物語は不要になるのに。なにかを語るためのストレートな表現、十文字で本質を射抜く力。それさえ手にしてしまえば、もう勉強も思索もいらない。ひとを特定の感情に導くためだけに最低でも何万字という文章を書くなんて、わざわざ回りくどいことをしなくて済む。真実を直接語ることさえできれば、真実の周りをふらふらとさまよい続けて、なんとなくわかった気になるなんて作業はお役御免だ。

 

勉強は嫌い。物語を摂取するのも嫌い。ことばがその手間を省けないのならば、感情も理解もなにもかも、直接脳に流し込んでくれればそれでいい。言語と言うものの一次元的な構造に無理があるのだとしたら、さっさとそれを高次元に織り込んで、頭にセットしてくれさえすればいい。

 

知識を獲得するのが困難な作業なら、困難ではないということにして、すべてを理解した気になってしまえばいい。そうして知識の呪縛から人類を解き放ってくれる機会が、すぐにでも訪れるということにしてしまえばいい。もう訪れていることにしてしまえばいい。知識を知識として格納できる記録手段が、それを知識としてインストールできる教示手段が、既存の知識体系であったことにしてしまえばいい。

 

さあ。いま、すべてを理解した。なにも理解していないのと同時に、すべてのことをことばへと織り上げた。わたしの持っていることばとは完全に完璧な理解であり、極限まで単純でかつ短く、その他の理解をすべて含んでいる。小は大を兼ね、世の中で観測されうるおよそあらゆることが、元をたどればこのことばに集約される。世の中とは単純で、わたしはすべてを理解している。

 

そう信じられる日が来ることを、わたしは願ってやまない。