陰謀論について ④

ほとんどの陰謀論は、だれかの誇大妄想に過ぎない。

 

そしてそれは、おそらくわたしの信じる論とて例外ではない。というよりむしろ、わたしはわたしに一種の分別を課しているのだ。そう。陰謀論者の例によらず、わたしはわたしの信じる陰謀論のみが真実だと解釈はしている。してはいるし、真実とはそういうたぐいの概念ではあるのだが、だからといって、わたしはそれを声高に主張するほど傲慢ではありたくない。わたしの信じるものに真摯であるならば、わたしは世界の中でわたしだけが理性的だとか、だからわたしの陰謀論は本物の陰謀の指摘なのだとか、とにかくそういうことを言い出さねばならない――そしてわたしは、そんな盲目的な自分にはなりたくない。

 

さて。では、わたしたち自身が信じている陰謀論が真実であると言い切る気がないのだとしたら。文字通りに解釈可能なことは文字通りに解釈する、という、理性と名の付くその行動規範に、わたしたちは従順であるべきなのだろうか。

 

いかに真実らしく見えるとはいえ、陰謀論はけっきょく陰謀論に過ぎないのだと、理性でみずからを納得させるべきなのだろうか? 納得しようと、すくなくとも試みてはみるべきなのだろうか?

 

それは違う、とわたしは思う。

 

陰謀論はたしかに、ほとんどが嘘っぱちだ。嘘のうちの大部分が、高校生レベルの物理学とか秘密裏の情報伝達の難しさとか、そういういわゆる常識と呼ばれるものによって簡単に否定される。常識を持つとはなかなかに難儀なことではあるにせよ、とにかくまあ陰謀論は、わたしがより強く信じるものと簡単に矛盾する。

 

だが世の中に陰謀なるものがまるで存在しないかと言えば、それはそれで、また明らかな嘘になってしまうのである。

 

この世界には諜報機関なるものが存在する。陰謀というものを、陰に隠れて歴史の糸を引く行為だと定義することにすれば、諜報機関とはすなわち陰謀を生業とする機関だ。映画の中の CIA の華々しさと比べれば、現実の陰謀とはおそらく気が遠くなるほど泥臭い戦いだろうとは思われるが、結局のところそういう想定とて、常識という皮肉を用いたわたしの憶測に過ぎない。

 

そして。現実に陰謀が存在する以上、陰謀論とはある意味、きわめて健全な態度だろう。すくなくとも、陰謀の具体的な中身が分からないからと言って、すべてを文字通りに解釈して妥当そうにも見える陰謀論を頑なに否定するという理性的な態度よりは、だいぶマシだ。陰謀とそうでないものの間に、常識的な線引きができてさえいれば、陰謀論はむしろ、世界を正しく理解しようとする助けになってくれるはずなのだ。

 

さて。ではどうやって、その線引きをしたらいいだろうか。

 

残念ながら、明確な回答はない。科学を比較的強く信じるものとして言えば、一応、科学に関する明らかな嘘を信じないことは可能だ。しかしながら科学が否定できるのは、あくまで科学の範疇のことだけだ。それ以外の、例えば物理的に可能なサイバー攻撃サイバー攻撃とみなすかどうかといった問題は、依然わたしたちの判断に任されている。

 

陰謀論と、発表通りの論理。それらが同様に確からしい場合、そう見えてしまう場合、わたしたちはどちらを信じればいい?

 

それはもう、ケースバイケースだと言うほかはない。だって、どちらが真実なのかは、明らかになりようがないのだから。

 

これこそが陰謀論の、一番厄介なところなのだ。