サービス精神

文章を書く目的にはいろいろある。

 

これは日記だから、目的とはありのままの日々を記録することにある。記録して、消滅を免れさせてやるためにある。今日という日にたとえ、振り返るだけの価値がなかったとしても。

 

記録しなければ、数日後にはすっかり忘れて、存在しなかったことになってしまう。それは少々、もったいない気がする。

 

他にもある。だがこの話は前にもしたから、手短に済ませよう。思考の補助、歴史の記述、契約の証明……うんぬんかんぬん。捨象する、一次元化する、あるいは厳密に、不変なものにする……。文章という形態のさまざまな側面。それらは微妙に色合いを変えて、社会あるいは個人の中で、さまざまに重要な役割を果たしている。

 

さて。

 

文章という形態の、さまざまな使い方。だがそれらのなかでもっとも重要な事項。

 

それは、文章とは誰かになにかを伝えるものなのだ、ということのように思われる。

 

文章の偉大さとはなんだろう。そのひとつはおそらく、誰が読んでも、それなりに同じものを想像できることだ。書いたひとがなにを考えたか、その具体的な風景は、たしかに筆者にしか見えていない。だがそれでも、ことばは共通の風景を作り出す。

 

風景をことばへと、適切に捨象すること。その営みを通じて、筆者は全員の心の中に、ある程度似通ったイメージを想起させることができる。

 

その意味で、ことばは普遍の形態と呼べる。普遍であるように、書かれた文章には。

 

では、もう一歩先へと進んでみよう。文章が伝えようと、目指すものとはなんだろう。

 

普遍であること。それじたいは、ゴールにはなりえない。読者の自由な想像を促したい場合を除けば、筆者はじぶんの文章を、じぶんの望むように受け取ってもらいたいと思っている。だからこそ、筆者は文章を使う。なぜならことばの普遍性は、文章をそういう目的に適した媒体にさせているからだ。

 

重要なのはむしろ、なにを伝えるかという点だ。あるいは、なにを伝えないかという点だ。筆者が行うべきは、自分から見えているすべてを伝えることではない。すべてを逐一、ことばの羅列に落とし込むことではない。

 

すべてを正確に伝えられることばが、仮に存在したと仮定しても。広大すぎて、とらえどころのない風景は、そのまま伝えるのに適したかたちではないのだ。

 

では筆者は、どうすればいいのだろうか。風景の全部を書き込むのが悪手なら、どの部分を切り取ればいいのだろうか。

 

……残念ながら、この問いには、ひとつ重要な視点が抜けているように思える。

 

読者から見て、美しい文章。それは必ずしも、筆者が最初に見ていた風景だけから構成される必要はない。与える情報を取捨選択する以上のことが、筆者にはできるのだ。見せる順路を考え、見せる角度を考えることが。もっとも美しく見せられる位置に、展望台を設置することが。場合によっては脚色を加えて、筆者自身も見たことのない、斬新な風景を作り出すことが。

 

読者からの見た目を意識して、文章をコーディネートすること。その態度はある種の、サービス精神だと呼べるかもしれない。

 

さて。現在のわたしに、そんなコーディネートはできているだろうか。

 

正直、できている気がしない。わたしは順路をつくるので精一杯だ。ましてや、脚色など。どこへ行きつくかもわからないのに、デコレーションなどできるわけがない。

 

……だから。

 

普遍性を気にする時期は終わった。これからは、美しい文章を書く時期だ。毎日できるかはわからないが、そのゴールを目指して、これからは書いていくことにしようと思う。