美文の正体へ

美しさは、論理では説明できない。雄大な自然も荘厳な絵画も耳に心地よい音楽も、どれもなぜ美しいのかと聞かれれば答えに窮してしまう。わたしたちはそれらを理解できず、そして重要なのは理解しようと試みることではない。美しきものを鑑賞する正しい態度とは、一切の論理を捨てて、単純な感情の流れに身を任せることだ。

 

もっとも、美しさを説明しようという挑戦が不可能なわけではない。大学の中にはそういう学問があって、美術論とか音楽論とか言われて研究がなされている。もちろんその手の試みはアカデミア以外のところでもなされていて、在野の美術評論家などというのは世の中にいくらでもいるわけだ。

 

そういうひとたちは、美しさをただ美しいと述べるだけで終わらせない。彼らは不遜にも、美しさをことばの形に解体し、解説しようとする。この作品にはこうこうこういう技法が用いられていて、これにはこういう印象を与える効果があって、それはこの時代のこういう流行を反映していて……うんぬんかんぬん。その背景を理解すればおそらく、美しいものの鑑賞は一段階面白くなる。

 

さて。その手の知識は、美しさに関するわたしたちの体験を補強してくれるだろうか。言い換えれば知識は、美しさの脇にある知的好奇心を満たすためでなく、美しいものをより美しくするそのことのために用いられうるのだろうか。論理に裏打ちされない純粋な感情なるものを忘れてしまって久しいわたしにとって、それはおそらく正しい。美しいものがなぜ美しいのか、すくなくともなぜ美しいとされているのかを知ることは、美しいものそのものをきっと美しくする。

 

さて。話題を文章に移そう。文章という芸術のかたちは、ほかの芸術の形態と比べてはるかに多くの部分をその論理性に依拠している。絵画が抽象的過ぎたり、風景が理不尽であるぶんには構わないが、文章は意味不明ではいけないわけだ。文章には論理があり、美しさの大部分は論理を経由してわたしたちに伝わる。それゆえおそらく、文章の美しさはほかの芸術の美しさと比べて、非常に説明が付けやすいはずだ。

 

世の中には美文と呼ばれる文章がある。特に目を見張るような論理が繰り広げられているわけでも、それどころか話が進んでいるわけでもないのに、なぜだか惹きこまれてしまう文章がある。論理そのものの美しさとはまったく無関係に、文章そのものが光り輝いているとしか思えない印象を与える、そんな文章がある。

 

では、その正体はなんだろう。

 

きっとそれは、説明可能なものだ。美術が説明できるのに、文章が説明できないわけがない。しかしながら論理そのものと違って、両手に受けた美文の光は、わたしが解釈する暇もなくさらさらと流れ落ちてしまう。なぜなら美文は勢いだからだ。振り返って論理をひとつずつ確認させようなどというつまらない感情を、ひとに引き起こさせないからだ。

 

だからわたしはまだ、美文を説明できない。説明によってはるかに美しくなるとしても、わたしは美しさを、単に美しさとして消化してしまうのだ。