攻略本趣味

わたしが小学生のころ、世の中にはゲームの攻略本なるものが出回っていた。その名の通り、市販の特定のゲームの攻略情報をまとめて、一冊の分厚い本に仕上げたやつだ。だれもがインターネットを使える現代ではなかなか考えにくいことだけれど、十五年前にはまだ、そういう情報は紙媒体でやりとりされていたのだ。それも、いまよりもずっと若い世代しかゲームなんてしていなかった時代に。

 

当時の小学生にしては珍しく、わたしはゲーム機を持っていなかった。友達の家に行ったときに遊ばせてもらったりはしたけれど、家ではしなかった。だからもちろん、攻略本だって持っていなかった。攻略本を読むとはつまりプレイしないゲームの攻略情報を知ろうとする行為であり、当時のわたしの目にはまだ、それは矛盾した行動として映っていたのだ。

 

じつのところ、そういう行動はある程度妥当な行為だ。さまざまなゲームの攻略情報に、インターネット経由で自由にアクセスできるようになった現代。わたしはよく、まだ買ってすらいないゲームの wiki を読み込んでいる。一秒たりともプレイしていないのに、そのゲームで用いられる基礎的な用語をすでに知っていたりもする。昔なら本を買わなければ得られなかったその情報を無料で読んでいるとき、わたしはいつも、新しい知識を獲得する喜びに包まれている。ともすればわたしはそのとき、実際にそのゲームで遊ぶときに覚えるだろう以上の快楽を覚えているかもしれない。

 

そういう趣味には名前がついていない。だれかが付けたのかもしれないけれど、少なくともわたしは知らない。わたしが知らないということはきっと、それほど一般的な趣味ではないということだ。そういうことをする奴をわたし以外にももうひとり知っているけれど、わたしたちをカテゴライズすることばは奴からも聞いていない。すこしちがった概念をあらわす既存のことばを流用して、エアプ、と呼んではいるけれど。

 

そして思い返せば小学生のころ、わたしが憧れていたのはゲームではなく、ゲームの攻略本のほうだったかもしれない。

 

世の中は理屈がすべてではないのだと理解するまでにはまだかなり長い時間を要した、あのころのわたしの感情。ゲームをしないのに攻略本だけを読むという行為を、わたしはたぶん理解しなかっただろう。攻略本とはその名の通り、攻略の助けとして読むものだ。それを読んで得られる知識のすべては、単にそのゲームのためだけの知識。攻略本とは辞書みたいなものだ――そしてだれが、辞書を読み物だと考える? だれから言われるでもなく、そういうふうにわたしは考えていた。

 

いまでは考えは異なる。攻略本とは教科書で、読むとは勉強なのだ。人生に直接役に立たない分野を学んでいる、それはたしか、教養人として称賛されることだったはず。それならなかなか、いい趣味じゃないか?

 

まあ、どちらでもいい。ゲームなんて楽しんだもの勝ちだ。そしてプレイしないことが楽しむことなら、プレイする必要なんてどこにもない。