もう英語を使わなくていい

英語でわたしは、おそらくいま AI に勝てない。どこか特定の部分では勝てているかもしれないけれど、総合的に見て機械のほうが英語が上手いということには疑問の余地がない。わたしが勝てている数少ない部分だって、優位を保てる自身はこれっぽっちもない。現在の進歩の速度を見るに AI の飛躍はすさまじいから、きっと近い将来、勝利を挙げられる点はまったくなくなるだろう。

 

もっとも、それは AI が人類を超えたということを意味しない。わたしというひとりの、そうやる気のないノンネイティブを超えたというだけの話だ。わたしよりはるかに英語の上手な人間は依然として機械より上手に英語を使うだろうし、機械がかれらを超える未来が現代の技術の延長線上にあるとも限らない。機械におそらく超えられたわたしと、機械にはまだたどり着けていない領域にいるひとたちのあいだにはきっと、それだけ大きな違いがあるようにわたしは思う。

 

とにかく、わたしはもう AI に勝てない。そんな状況で英語を勉強しようという気はこれっぽっちも起こらないが、かりにその気になっても関係はない。わたしは英語に適性があるとは思わないから、英語で生業を立てているひとの領域にはけっしてたどり着けないだろう。そしてこれからの技術の進歩は、わたしというひとりの一般人の学習よりもはるかに高速だろう。だからわたしはきっともう、二度と人工知能には勝てないだろう。

 

それが残念なわけではない。中学に入ってから足掛け十四年にもわたる努力が水泡に帰したところで、べつに悔しくもなんともない。英語ができるということはわたしのアイデンティティではないし、喜びの源でもない。稼ぐ手段でももちろんない。そもそもたいして頑張った記憶もないから、努力なんていう表現は不正確だ。英語でしか得られない情報を得るために仕方なく読んだ文章はいくつかあるが、それ以外はただ、課された課題をやっつけていただけだ。

 

むしろ。逆に技術には、さっさとわたしのレベルなど飛び越えていってほしいと思っている。そうなってしまえば、わたしは英語を使わなくてよくなるからだ。わたしが英語を扱うという選択が、自然と非合理なものになってくれるからだ。

 

シンギュラリティはまだ来ていない。人類よりも上手に英語を操る機械は、いまだ出現していない。けれどわたしより上手な機械なら、おそらく手の届くところにある。あるいは、もう出現している。

 

かくしてわたしは敗北した。そして敗北の、なんと甘美なことか。自分よりも上位の存在にすべてを任せることができるという安心感を、わたしはただ噛みしめているだけでいいのだ。

 

そして。もしかするとシンギュラリティとは、全人類がすべての分野で、この安心を手に入れることなのかもしれない。