物語には多かれ少なかれ必要不可欠な情景描写だが、実際に文中で果たしている役割を聞かれれば、どうやらなかなか判然としない。多くは話の筋に直接は影響せず、文章に望みの雰囲気を与えるために使われていると言えるだろうけれど、べつにそれがすべてではなく、伏線として働く場合もある。雰囲気を与えるという役割にしたって、たとえば主人公の心情が動いたら必ず天気の話をしなければならないわけではないように、いつどこで使えばいいのかに明確なルールはない。
とはいえおそらく共通するのは、情景描写とは基本、読者が真面目に読まない前提の文であるということだ。右手に何が見え、左手に何が見えると主人公の周囲の様子をことこまかに書いてみたところで、読者はたいてい、わざわざその様子を想像しない。主人公に感情移入したり、主人公の身に起こっていることをあたかも自分の身に起こっているかのように感じたりはするかもしれないが、主人公の視野として具体的に描写されたものを、読者は基本、自分の視野に置き替えて認識しようとはしない。
理由は明快だ。文章で書かれた情景を読み解くという行為には、それなりの認識負荷がかかるのだ。たとえばミステリなどの分野では、カバーや巻頭などの目立つ位置に舞台となる建物の間取り図が書かれていることが多いが、その理由は基本、文章で説明されたところで読者は理解できないからだろう。いや、理解しようと努力すれば理解することはできるかもしれないが、読者はわざわざそんなことをしないし、かりにしたところで忘れてしまう。覚えておくために図を書くことを求めるのなら……本のどこかに、最初から書いてあったほうがいいに決まっている。
かくして情景描写は、読者が真面目に読もうとしないことを前提に書かれなければならない。つまりは、おそらく文字を追うことはするけれど、具体的な情景を思い浮かべるということはしないと想定して。情景描写を読んでいるとき読者が見ているのは文字や単語であり、文字や単語それじたいの情景だ。描写が論理的には表現しているはずの景色は、どうでもいいとまでは言わないが、伝わりはしない。
だからこそ情景描写において、筆者にとっては、具体的な情景を思い描くこと以上に、きっと適切な単語を選び抜くことが大切なのだ。
一単語一単語に気を遣って文章を書くこと。それはけっこう、しんどい行為だ。情景描写に限らず単語には気を遣えを言われてしまえば耳が痛いが、それでもやはり、情景描写は疲れる。どうせだれも真面目に読まない文章なのに、ではなく、だれも読まないからこそ。内容ではなく見た目が勝負であるからこそ、情景描写は大変なのだ。