自由の発見

思い返してみればここ数ヶ月、ふたつのことについてしか書いてこなかったような気がする。チャット AI についてと、文章というものについてだ。

 

まあそれは仕方がない。チャット AI をわたしは日常的に利用しているし、それをどう使えばいいのかについて、日々よく考えている。理論の徒としては、本当ならわたしが思索をめぐらせるべきは AI の使い方ではなくニューラルネットの中身がどうなっているのかだろうと思うのだが、あれほど高性能だとそんな気も消え失せてくる……という話も、この前したところだったっけ。

 

文章もまた、わたしが日常的に触れているものである。というか、そもそもこれが文章だ。書くという生活をはじめてほぼ二年、わたしはすっかり、普段の文章を技術という観点から見るようになった。良いと思った文章がなぜ良いのかを考え、悪いと思った文章の悪いところを言語化する日常。そしてそれ以上にやってきたのは、わたしの論理からすれば悪い文章に分類されるはずなのになぜか良いと思ってしまう文章が、その悪さをどのように良さへと昇華しているのかを分析することだった。

 

文章とは自由である。最近になってようやく、そのことばに実感がともなってきたような気がする。定義の上ではもちろん、自由など当たり前のことだろう。およそ文字が文法に沿って並んでいれば、どんなものだってとりあえず文章とは呼べるのだ。だがそれがまともな文章であるためには、いくつかの厳しい条件を満たさねばならぬとわたしは思っていた。だが実のところ、たいていのことは許容されるようだ。

 

プロの文章を読んでいると、その自由度には驚かされる。改行はいくら入れても良い。句読点の個数はひとそれぞれ、体言止めも文末の読点もあり。三点リーダをたくさん入れるだけで、変化する印象もある。情景描写では、たとえば概念が物理世界に影響を与えるような、普通ではありえないような主語と動詞の組合せを用いても良い。そういう小手先の技術だけでなく内容面においても、自由はすべての領域で謳歌されている。オリジナルの単語を説明なしにぶつけて、明確な定義なしに済ませても良い。作中の数十年を小説は一瞬で飛ばす。作中の描写は、たとえ科学技術の描写であっても、適当なアナロジーで済ませてしまってよい。

 

そしてそれらの自由度のひとつひとつがきっと、文章の技術なのだ。

 

それらのほとんどをわたしは、もちろん身につけていない。この場ではなるべく多くの自由を謳歌したいと思ってはいるが、まあ、なかなか上手くはいかない。自由とはつまるところ、存在に気づくのが一番難しいのだ。