狂気の分析

いろいろなひとが世の中にはいる。といってもべつに、いわゆる多様性の話をしたいわけではない。性別とか人種とか経済状況とか前科とかその他あらゆる社会的属性に関する問題は……まあ、そういう活動をしているひとに任せておけばいい。わたしはただ、ひとにはひとの考え方があってそれは非常に多岐にわたるという、きわめて当たり前の話に言及したいだけだ。見て分からないせいか分類が不可能なせいか、なかなか多様性とは呼ばれないありふれた差異についてだ。

 

多様な考え方をするひとがいる以上、その中には必ず、けっして分かり合えないひとびとがいる。それは仕方のないことで、我慢強い対話とか相互理解の努力とかそういうきれいごとを並べ立てたところでとうてい解決する話ではない。事実は小説より奇なり、いくら想像をめぐらせたところで絶対に思いつけないような行動原理を持つひとはいる。それにそもそも、理解し合わねばならぬという価値観じたい、万人が持っているものでもない。

 

さて。どうやっても理解できない人間が目の前にいるとしよう。わたしたちの理屈は通用せず、同じ常識を持たず、生物学的にホモ・サピエンスであること以外の一切が理解できなさそうな人間だ。彼らはわたしたちと同じことばを話すかもしれない、けれどその受け取り方は想像もつかない。そしてわたしたちが理解できる……つまり、共通した文法構造だけは持っていることばを使って、まったく違うアイデアを披露している。彼らはわたしたちが陰謀論と呼ぶものごとを信じていたり、想像もしなかったようなことで感情のトリガーを引かれたりもする。

 

狂人。そういうひとをみて、わたしたちはそう思う。狂気が彼らを支配している。なにかは全然分からないけれどとにかくわたしたちとは全然違うことだけは間違いない論理が、きっと彼らの裡にある。そして当たり前のことだが、みずからが狂人だと自覚している狂人はいない。わたしたちの目には狂気だとうつるものは、彼らにとってはきっとまったくの正気なのだ。そして正気だと信じるそのことに基づいて、彼らは普通に行動しているにちがいないのだ。

 

だからこそ。わたしたちはその狂気を理解したいと思う。いったいなにをどう信じればあんな言動をするに至るのか、知りたいと考える。彼らをこちら側に引き戻すには、あるいは利用するにはどうすればいいか。彼らの目には、わたしたちが正気と思っているものがどんな狂気に見えているのか。

 

かくして狂気は分析の対象になる。彼らの行動が説明する論理構造、彼らのことばを真実にするための前提。わたしたちが正気と考えるものが出す結論はもしかすると、実際の彼らの精神構造とはまるで異なるかもしれない。けれど案外。うまくいったように見える説明は、作れるものだ。

 

説明ができたとき、狂気はもはや狂気でなくなる。偏執や無知や傲慢ではあるかもしれないけれど、説明がつく以上狂気だけではないのだ。狂人だと思っていたひとが理解できたように感じること、そのことには意味はないかもしれない。理解したところでやはり、いや理解したことでより一層、彼らとは絶対に接触したくなくなるかもしれない。

 

けれどとりあえず、わずかな親近感を覚えることはできる。相互理解が必ずしも必要ではない以上はきっと、その程度の自己満足で十分だろう。