繊細と怠惰の共通点

繊細と怠惰の違いとはなにか、と問うてみようか。なにを馬鹿なことを、と思われることだろう。繊細と怠惰とではもう、向いている方向が百八十度違うじゃないか。どちらもひとの性格をあらわすということ以外なにも共通していないと、きっとあなたは思うだろう。

 

そう思ってくれるのであればわたしは安心だ。わたしは怠惰を自認しながら繊細さを非難するからだ。繊細と怠惰が客観的に見てぜんぜん違うのであれば、わたし自身の一貫性に関して余計な心配をしなくて済む。ひとの繊細さを嫌悪するわたしのことばが、そっくりそのまま自分に跳ね返ってくると思う必要がなくなる。

 

しかしながら考えてみれば、繊細と怠惰にはいくつか、共通する点があるのである。

 

たとえばこんなのはどうだろう。繊細さとは、理性よりも感情を優先する感性である。論理的に考えれば、精神は傷つくより傷つかないほうがいい。繊細なひとだってそんなことは百も承知だけれど、傷つくものはやはり、傷つく。かれらの怒りの矛先は、かれらを傷つけただれかと、傷ついてしまう自分自身の両方に向けられる。そしてまたその怒りそのものが、自分自身を傷つけるわけだ。

 

その点は怠惰も同じだ。論理的に考えれば、問題は先送りにしないほうがいい。どうせやらなければならない面倒なことは、いまやってもあとでやっても一緒だからだ。わたしたちはそう知っているけれど、レポートや手続きを後回しにする。わたしたちの文句は、書類にわざわざ郵送を求めてくる役所の無能さと、なによりぎりぎりまで締切を無視していたわたしたち自身に向けて吐き出されるわけだ。みずからの計画性のなさを呪うその時間にだって、ほかにできることがあったはずなのに。

 

それでも怠惰は、繊細さと異なるだろうか。繊細さを虚仮にしながら、怠惰な自分を貫いてもいいのだろうか。いやもちろん怠惰な時点で良くはないのだが、わたしは最低限、自己矛盾を来たさずに生活できているだろうか。

 

怠惰をもってして、繊細さは理解できない。これらがある面で同じだとはいえ、やはり怠惰は怠惰だし繊細は繊細だ。わたし自身が怠惰であることだけをもって、わたしは繊細なひとにやさしくできないだろう。繊細であることをもって、怠惰な人間を許してくれるひとなんてなかなかいないだろう。

 

繊細と怠惰。それらはどちらもくだらない。そうあることをかりにやめられるのだとしたら、やめたほうがいい。互いに理解し合えない、そんなどうしようもないわたしたちがもし、ひとつだけわかりあえることがあるなら。

 

わたしたちはきっと、そんなみずからのくだらなさに、多少の愛着を持っている。