きみはじつは、何も理解していないんじゃないか。
声がふと、頭のなかに聞こえた。いったん耳を傾けると、それは羽毛のような圧力で部屋を埋め尽くす。囁くようでいて重厚な、力強くも飄々としたテノール。ぼくのまだ知らない仙人の声。すなわち、この世にたったいま湧きだした声。
そんなはずはない。複雑な物理の公式だって、いまのぼくなら使いこなせる。
べつの、よく知った声が答えた。
公式を使えるからって、理解したことにはならないよ。
仙人の声は、こんなに当たり前のことにすら妖しげな説得力を与えている。
いいや、ぼくは公式を使えるだけじゃない。それがどうして成り立つかだって、ぼくは知ってる。公式を作った人が、何のために作ったのかだって分かる。これで理解していないって言うなら、世の中に理解している人なんていないし、そもそも人類はこれを理解せずに作ったことになる。
ぼくの声は反論する。
なるほど。じゃあきみは、仮にこれ以外のすべてを知っていたとして、この公式を自分で発見できたと思うかな?
頭に一本の公式が浮かび、仙人は語気を強める。聖なるものの攻勢。
わからない。すくなくとも、ぼくの知識にその問いの答えはない。それでも推測するなら、ぼくは物理は好きじゃないから、意図して発見しようとは思わないと思う。でもぼくの知識からもしこれだけが欠けていれば、きっと不自然に思うとは思う。
まるでぼくのものじゃないかのような声が、ぼくの声で響く。
ほんとうか? すくなくともきみは、この四時間、なんの違和感も覚えなかったみたいだけれど。
ことばの蛇口をひねったように、仙人は饒舌になる。蛍光灯が消滅し、天井が平坦になり、その裏から光が漏れる。
それはきっとこの知識が、そういうふうになっているんだと思う。意識された瞬間に、その知識が補填される。だからぼくはつねに、求めた知識を手に入れることができる。
つい今しがた思いついた仮説。そう意識すると仮説は信憑性を増して、まるで大昔から知っていた事実のような気がしてくる。
仙人はしびれを切らしたような声をあげ、ぼくはびくりとする。
まだわからないかね。これはきみがなにを知っているかの問題じゃない。きみはたしかに、すべてを知っているからね。そうじゃなく、きみがなにになるかの問題なんだ。
さっききみは、きみが何者かにはなるはずだと考えたね。なれるはずじゃなくて、なるはずだと。でも残念ながらいまのきみは、何者かから最も遠い存在だ。もう分かっているだろう? すべてを知っておきながら、たったの四時間で、すべてに飽きてしまうのだから!
さて、きみはもう知識には満足だろう。いくら知識があっても、最終的にきみは頭の奥底にしまいこんで、必要としすらしないんだからね。というわけで、わたしはもう帰るよ。ほんとうに知識を必要とするひとのもとにね。
きみが今日意識したことは、そのままきみの知識として残しておく。正直なんの脈絡もない事柄だけど、きみが知りたかったことではあるらしいからね。それと、この会話の内容も。きみには必要なことだからね。
じゃあ。それでは。そんな日は来ないだろうけれど、一応、また会う日まで。
全身がメッシュ生地になったような涼しさとともに、熱っぽい何かが引いて行く感覚があった。待って、そう言おうとしたときにはすでに仙人の声はなく、申請だったはずの声も思い出せず、かわりにそれは同居人の野太い声で響いた。壁の書棚に目を向けると、そのうち何冊かの詳細が、感情を揺さぶる記憶とは紐づけられないまま、無機質に脳を巡った。カーテンの開け放たれたままの窓からの光は床を垂直に刺し、型番を覚えたクーラーの冷風だけが、中国製の枕の上に降り注いでいた。