激情 ④

彼女は手を放した。教授の顔に浮き出ていた青白い血管の模様が消え、血の気が戻るのがありありと分かった。彼はおそるおそる身体をひねり、背後の棚の中身を探った。怒れる学生の行動を警戒しながらのぎこちない作業は見ているだけでももどかしく、ふたたび教授に掴みかからないようにするために彼女はみずからを律する必要があった。

 

目に見えておどおどしながら、教授は薄赤色の物体を机に置いた。それは彼女の提出した例の課題作品だった。言い換えれば、彼女の怒りそのもの。ついで教授はタブレットにレポートの一覧を呼び出すと、いくつかのグラフを並べて表示した。それらは彼女のクラスの学生が提出した、脳波図の履歴リストだった。

 

「左上のグラフがきみの履歴だ」教授は言った。小刻みに揺れ動く曲線たちのなかで、彼女のグラフは異彩を放っていた。線はところどころ計測範囲を突き抜け、乱暴そのものと言ってよかった。縦軸の範囲すら違っていた。「端的に言おう。きみはこれまでにわたしが受け持った学生のなかで、一番の激情の持ち主だ」

 

「それがどうしたんですか」彼女は突っかかった。先ほどの沸騰するような怒りこそなかったが、両目はまだ燃え盛っていた。「わたしは指示に従わなかった。ほかの学生は従って、感情を抑えて表現した。だからこそこういう脳波図が表れた。違いますか?」

 

「つまりきみは、感情を作品にぶつけるのが悪いことだと?」

 

「あなたがそう指示したじゃないですか。感情を制御し、道具として扱え、と。忘れたわけないですよね」

 

「ああ、そういうことか」合点がいったように教授は膝を叩いた。恐れを浮かべていた両目に、わずかに安堵が戻った。「わたしが言ったのは、必要な感情を必要なときに呼び出せるようになれ、という意味だよ。感情を無理やり押さえつけて、弱めろってことじゃあない」

 

「それでもです」彼女は食い下がった。「わたしは怒りを、ただ怒りのままあの物体にぶつけた。それが必要かなんて考えなかった。あなたの指示したこととは違うと思います」

 

「違わないよ」

 

「誤魔化すのはやめてください。そういうのが一番嫌いなんです」

 

「誤魔化してるわけじゃない。思い出してほしいのだが、わたしはこう指示したんだよ。あの物体になんでもいいから、強い感情をぶつけろとね。そしてきみは、最強の怒りをぶつけた。適切な行動じゃあないか」

 

「そういうことを言ってるんじゃありません!」 いきおい、彼女は凄んだ。教授はびくりとしたが、それだけだった。立ち上がって逃げることも手に持った作品を取り落とすこともせず、すぐに落ち着いた微笑を浮かべた。なにかがおかしい、彼女は思った。なにかがおかしく、教授はそれを誤魔化している。けれどなにがおかしいのかは、考えても分からなかった。