テクニカルタームと直感

「捏ねる」という野球用語をご存知だろうか。

 

ここの読者のほとんどは、おそらくなんのイメージもできないだろう。野球経験者でもなければこんなことばを聞いたりしないし、そしてこの日記の存在を知っているひとは九割方、野球などプレイしたことがない。一般的な用法において捏ねるのはパン生地かハンバーグくらいであって、そしてこれは野球経験者でなくても知っていることだが、野球の試合に食べ物は出てこない。

 

だれも知らないだろうから軽く説明しよう。バッターがボールを打つとき(簡単のため、右利きで右打席に入っているとしよう)、右肩から左肩の方向へとバットを動かしていくわけだが、回転運動の都合上、その過程のどこかでかならず両手首を「返さ」なければならない。これは実際にやってみればわかるのだが、バットを左肩の方向へと持っていくためにはどこかで左ひじを曲げねばならず、そしてバットを握ったまま左ひじを曲げれば、手首は否応なくひっくりかえることになる。

 

その動作が早すぎるのが「捏ねる」の正体である。バットがボールに当たり、体感的にはまだ接している段階でこの「返す」動きが入り、かつそれが前方への力を含んでいなければ、ボールには水平方向ではなく、左下方向への力がかかる。結果としてバッターはボールを「引っかけて」しまう。つまり左方向――分かる人向けには、サード方向――へのゴロ性の当たりが飛び、たいていの場合、打ち取られてアウトと相成るわけである。

 

……というようなことを、野球経験者はたいてい、だれに教わるでもなく知っている。「捏ねる」という表現を見たのが初めてだろうが、その定義を確認することなく、たいていの意味を把握できる。そしてそれをことさら、不思議な表現だと思うこともない。

 

考えてみれば不思議なことである。というのも、いま説明した意味での動作は、一般的な意味での「捏ねる」という動詞とはほとんど似つかないからだ。「引っかける」も同様で(「捏ねる」とほとんど同じ意味だが、「捏ねる」が力なく手首を返す動作そのものを指す反面、「引っかける」には打球の行方までを含めたニュアンスがあるように思われる)、わたしたちが引っかけると呼ぶのは、たとえばハンガーの先のように鋭く曲がった棒状のなにかを固定された突起や溝に合わせ、重力や張力に対抗できる状態にすることである。バットは直線状の物体であり、通常の意味では、「引っかける」なんていう単語で動作を表現できるものではない。

 

では「捏ねる」や「引っかける」というテクニカルタームのなにが、わたしたちをして、その表現がまったく自然であるかのように感じさせているのだろうか。