内省欲

四月になり、年度が改まった。停滞していた世の中が、一気に動き始めた。

 

なんていうことはべつにない。世の中は徐々にもとの活気を取り戻してこそいるが、年度が変わったからといっていきなり様相を変えるようなものではない。だれかの目から見て世の中が急に変わったのだとしたら、それはそのひとの生活が変わっただけであって、世の中そのものはただ、今まで通りの加速度で加速している。

 

さて。ということで、わたしの生活は突如、変わった。ここ最近はけっこう忙しくて、良く言えば、わりと充実した日々を過ごしている。学会に行ったり研究室を訪問したり、その過程で研究が進んだり考えたい問題ができたり、世の中の加速度に比べて、ずいぶんわたしは加速しているようだ。

 

そうではない前提でこの日記はある。具体的な人生のことを書かないことにしている都合上、その日にやったことに直接関係はないなにがしかをわたしは書くわけだが、そういうことを思いつくのは、それを考えるだけの余裕があるからだ。日々を忙しく過ごしていては、そんな暇も気力もありやしない。人生が充実していては、困るのである。

 

とはいえまあ、こんな日記、いつ辞めてしまっても問題はない。人生が上手くいっているのなら、それはそれでいいのではないか。書くことがないのならわざわざ書かなくてもいいし、書くために人生を停滞させよというのは、本末転倒が過ぎる。

 

というのが、合理主義的観点からして当たり前の結論である。

 

わたしの感性の問題は、そのきわめて自明な優先順位をなぜだか認めたがらないところにある。やることのある人生を良いものだとは認めつつも、人生とはけっして完全に充実させてはならぬものでもある、とわたしの心は言っている。人生にはある程度の停滞が不可欠で、そのためには暗く、閉塞感に満ちており、堂々巡りで、行き場のない思念に身を任せるという自傷行為が、いくらかは必要なのだ、と。

 

それを内省と呼ぶのは、少しばかり美化しすぎかもしれない。

 

自分自身について知ること。自分自身とは死ぬまで付き合っていく都合上、自分に興味を持つものにとって、それは生涯の問いになる。人生の最期のとき、自分自身についてはできるだけ深く知っていよう、と、わたしはたしかに思う。そのためには考えることをやめてはいけない、という強迫観念もまた、ある。

 

だが同時に、その言い訳は甘いものでもある。自分以外のだれも興味を持たないであろう、自分自身という存在とじゃれ合って時間を過ごす無駄な時間。内省という概念はそれを、その無限の繰返しを、無条件に肯定してくれる。