反抗の連鎖は続く

若者というのはいつの時代も、大人に刃向かいたくて仕方がないものだ。大人とは世の中を回している存在だから、つまり若者は世間という構造自体に反抗することになる。

 

わたしが歴史の授業で学んだ限りでは、近年で一番激しい反抗は六十年代、学生運動の頃だろう。いまの若者に反抗心がないわけではもちろんないが、当時の若者には行動力があって、激しいデモをやったり火炎瓶を投げたりしていた。その行動が正しいと言うつもりはもちろんないし、間違っていたと糾弾するつもりもまたないのだが、とにかく当時は激しかったと聞いている。

 

当時運動をしていたひとびとはいまや老人となった。彼らは大人の側、つまり世の中を回している側の人間になった。思想が古くなったとか求心力を失ったとかではなく、単に彼らは歳をとって、若者による蜂起という旗印を掲げられなくなった。学生運動が下火になった理由にはいくらでも具体的な考察があるから、ここでその議論をなぞるのはやめておこう。けれどきっと、それはすべての時代の若者が経験する、否応のない年月のうつろいであったのだろう。

 

似たような感じで、反体制的な市民権を得たものはすべからく体制に取り込まれてゆく。ロックンロールは反逆の象徴であったはずだが、もはやバンドマンたちも歳を取って、市井の人々にごく普通に愛される音楽へと変わっていった。そしてわたしたちは……そろそろ若者とは呼ばれなくなるだろう年頃のわたしたちは、いったいなにを、新しく体制に取り込ませたのだろう。

 

そしてわたし自身はこれまで、それに反抗していたのだろうか。

 

こう言っては元も子もないが、わたしはこれといったなにかに反抗していたつもりはない。ましてや、そのための行動を起こそうと考えたこともない。むしろわたしは、行動を通じて中途半端に世界を変えようと試みる世間知らずな若者たちを嘲笑う側に回ってきた。だからわたしは最初から、体制の人間だったのかもしれない。もし反抗したということがありうるならば、それは若者はすべからく反抗するものだという、世の中のテーゼそのものへの反抗だったかもしれない。反抗しないことを通じて、わたしは反抗していたのかもしれない。

 

さて。仮にそうだとすれば、きっとそれはわたしだけではないだろう。若者というのはいつも、自分たちを特別な世代だと考えたがる。自分たちの世代とは反抗をやめたはじめての世代で、反抗の愚かな連鎖から人類を自由にしたのだと若者たちが考えているとすれば、わたしたちは間違いなく、反抗の連鎖の中に取り込まれている。

 

そしてきっと。反抗を嘲笑うことはいま、世の中の標準になりつつある。それが次の世代に嫌われる時代が来ることは想像に難くない。けれど、べつにそれを避け、連鎖を終わらせようと試みる必要もない。なにせ、わたしたちは特別な世代などではないのだから。