すべてを勉強と呼んで

親とか先生とか上司とかそういう存在は、子供とか生徒とか部下に向かって、とにかく勉強をしろと言い続ける。そのお説教は彼らの、人生の先輩としての立場にある存在としての責務であって、かわいい後輩たちがどう思うかとは無関係に、世界はそういう風になっている。わたしはもう二十五だけれど後輩について責任をもったことはないから、まだ誰かに勉強をしろと言いつけたことはない。けれど遅かれ早かれ、いつかは言い始めることになる。

 

しかしながら勉強とはなんだろう。まともな先輩たちは(すなわち、後輩の将来の輝かしさよりも現在の自分が後輩に好かれることを目指している先輩たちは)、なにを勉強するかはやる側が自分自身で決めるものだと教え込む。後輩に目指すべきなにかがあり、それに必要ななにかがあるのなら、必要なそれをやるのは勉強なのだと。あるいは目指すべきなにかがない場合も、現在あるいは将来に役に立つかもしれないなにかを学ぶのはやはり勉強なのだ、と。

 

わたしたち研究者とは、永遠の後輩であることが許される立場である。わたしたちがだれかの人生の先輩にならないわけではない、だれかより若い連中に向かって、勉強しろと言い出さないわけではない。しかしながらわたしたちはまた勉強を続けてよい存在であり、続けることの奨励される存在であり、むしろ勉強をやめてしまえば、わたしたちの仲間である資格を失ってしまうような立場にあり続けるわけだ。

 

わたしたちにとっての先輩とはおそらく、世の中そのものだろう。研究者に勉強せよといいつける存在は研究者自身であり、つねに最先端に詳しくあれと言ってくる存在は文部科学省をはじめとする国の組織であり、そのためわたしたちは、学会に赴いて話を聞くことに予算が付けられている。わたしたちの勉強とはれっきとした仕事として扱われていて、勉強して褒められることはあっても、怒られることはない。ちょうど家で中高生が勉強して、怒られることがありえないように。

 

といってもわたしたちに、勉強しろとうるさい親はいない。わたしたちに大学受験はなく、画一的なカリキュラムもない。だからなにを勉強するかは、わたし自身が決めなければならない。予算の出ている勉強ならば申請書の文言に合わせなければ……少なくともこじつけられなければならないが、そうでない余暇の勉強に関しては、そういう縛りすらもない。研究者の文化は知識を歓迎している。研究と直接の関係のない勉強を業務の外でやるのは、もちろん推奨されることだ。

 

だから、なにを勉強と呼ぶかという問いがここで持ち上がってくる。

 

考えようによっては、あらゆることは勉強だ。本を読むのは勉強、SNS を見るのは社会勉強、日記を書くのは文章執筆の勉強。勉強と呼べないことは世の中にはなく、あるのはそれが効率的かどうかだけ。その効率にしたって、研究者の多くはこう反射的に答えるだろう――勉強とは効率を追い求めるものではない、と。勉強だという一点においてあらゆることは正当化され、わたしのあらゆる行動は、永遠の後輩として望ましい行動になる。

 

……という風な感じで、わたしは自分の行動を恥じなくなってしまった。あらゆることは勉強であり、そのすべては正当なものだからだ。一度こうなってみると、勉強に効率は求めた方がいいとも思うのだが……。

 

まあそれは、もっと時間が無くなってから考えればいい。