変革を停滞と呼ぶ

最初の民主主義革命であったフランス革命は、それはもうめちゃくちゃな経緯をたどったものだ。わたしは歴史には詳しくないとはいえ、民主主義なるものが途方もない紆余曲折を経て成立した体制であることはよく知っている。やれ国王を殺して打ち立てられた革命政府のトップがめちゃくちゃな恐怖政治をやらかすとか、挙句の果てになぜか皇帝が現れるだとか。そういう揺り戻しと変革の連続を通じて、歴史は進んだ。

 

けれど一度変わった世の中は、けっして元通りには戻らない。フランス革命がまわりまわって皇帝ナポレオンを生んだからと言って、別にそれは従来型の君主制が民主制を打ち破ったのだというふうに単純に解釈できるものではない。その過程でフランス人は国民意識といったまったく新しい考え方を手に入れた。だからこそナポレオンは、従来では考えられない強力な軍隊を率いて東に攻め込むことができた。

 

さて。現代の本邦でもようやく、世の中は元には戻らないということが実感をともなって認識され始めたように思う。「コロナが終わったら」という一時期はまるで挨拶のように用いられていたことばも、最近ではもう聞かなくなった。こんな世の中には明確な終わりがあってそのときが来れば世界はまったく元通りだという考え方は、もはやスタンダードなものではなくなった。

 

世の中は動き出している。というより、現在を停滞だと認識することをやめた。世の中は一時的に凍結されていただけであり、数ヶ月か数年間かは分からないけれど必死で耐え忍べば、元通りの世の中がすっかり解凍されて戻ってくる。そんな考え方はこの事態の初期を支配していたように思われるけれど、最近ではすっかり鳴りを潜めている。今後の世界がどうなるかは予測不可能だけれど、とりあえず次の事件が起こるまで、世界は動き続けるはずだ。世界自身を、動いていると認識しつづけるはずだ。

 

では停滞の時期とはなんだったのだろうか。歴史の法則に反して、現在を耐え忍べばいずれもとの世が帰ってくるとみなが信じていた時代とは、いったいなんだったのだろう。その時期、世界は本当に停滞していたのか。

 

後世から歴史を見れば、おそらくあの停滞の時期こそ、もっとも変革が進んだ時期に見えるだろう。実際、世界は一瞬で大きく変わった。ひととひとが会うということが厳しく制限された結果、人類はその代替となるシステムを全世界的に作り上げた。有り余る時間でひとは思想を育て、世の中の行く末について議論した。

 

これを変革と呼ばずして、なんと呼ぶのか。

 

変革が人類の意志によってなされたのか自然に押し付けられたものなのかなどという違いは、結果から見ればわずかなものだ。けれどわたしたちは、それを停滞と呼ぶ。最近では例を見ない変革をもって、停滞と呼ぶ。

 

つまりはそれが、歴史の当事者であるということなのだろう。後世から俯瞰するのとその時代を生きるのとでは、きっとこうも違うのだ。