時間操作

小説の中の時間とはなかなか大胆に流れを変えるもので、そのスピードの変化といえばもうメリハリが効いているなんてレベルではない。

 

息詰まる勝負の一瞬、戦っている二人の刃と刃が触れ合う瞬間。その短い時間はものすごい長さに引き延ばされ、たかだか三十秒やそこらの出来事が、大量の景色と心情の描写をともなって何ページも語られ続ける。拡張されたその三十秒の記述は読者にとっても、とうてい同じだけの時間で読めるような分量ではなく、したがって時間的には短いはずのそのシーンは、読むのに要する時間が実際に長いというある種の裏ワザ的行為によって、読者の心に濃密な記憶として刻み込まれるわけだ。

 

そうかと思えば、長大な時間が一瞬で過ぎることもある。一日や一週間が「なにもしなかった」の一文で済まされるくらいは朝飯前、章と章のあいだで何十年という時間が経過していることだっていくらでもある。場合によっては、前の章の登場人物がほとんど全員死滅したあとの世界で、次の章の物語が展開されることすらある。そしてその間に起こったあらゆることは、まるで歴史の教科書のように、フラットで無感情な記述で済まされているわけだ。

 

もちろん作者は意図してそうしている。三十秒を数十分に伸ばしたり、五十年をゼロ行で終わらせたりといった極端さが、無意識にもたらされるわけがない。運命の短時間が引き延ばされるのはその短時間に語られるべきことが大量にあるからであり、逆になにもない長時間は、わざわざ描写する必要のあることがなにも起こらないがゆえに、ひと思いに飛ばされている。とはいえ時間は登場人物の状態を変化させるから、長時間をすっ飛ばしたければ一応、その間の出来事を軽く説明する必要はあるのだけれど。

 

短時間を濃密に語ると決めるのは、おそらく難しくない。実際に語ることの難易度はさておき、語ると判断するだけならば、だ。なにか詳細に語るのは、それが物語に不可欠なシーンだからであり、つまりそれを語らないという選択は、最初からあり得ない。

 

逆に。長時間をすっ飛ばす判断は難しいだろう。おそらくだが、多くのことは語らずに飛ばしても問題ない。物語の本筋に関係ないシーンはもちろん、関係のあるシーンであっても、何が起こったかを単に説明すれば十分なことはある。だがすべてをすっ飛ばしてしまえば、それはもう小説ではない。よくてあらすじや歴史の教科書、悪く言えば、よく分からない人物のよく分からない行動を描写した、謎の文字列。

 

具体的な描写でしか伝えられないことが世の中にはある。代表的なのは人物の性格で、ただ元気だとか怒りっぽいだとか書いただけでは、そのひとを描いたことにはならない。ひとを描くためにはそのひとを動かさねばならず、動かすにはシーンが必要で、そしてそのシーンは、全体のストーリー上意味のあるものでなければならない。そしてそのシーンを十分に有機的にするためには、きっとなにかひとつ物語に具体的な要素を付け加えるという、地道な作業が必要になってくる。