強きと弱きの挫き方

ひとが傷つけられる描写には二種類ある。強きものが傷つく描写と、弱きものが傷つく描写だ。

 

強きものは強きものだから、生半可な暴力では傷つけられない。簡単に傷つけられてしまっては、強さのイメージまでも一緒に傷ついてしまうのだ。従って強い人間が傷つく描写は、もちろん苛烈になる。強い人間のイメージを守るためには、彼らは少なくとも、読者が耐えられると考えるかもしれない拷問に屈してはならないのだ。

 

苛烈であることを宿命づけられた拷問に、最初は彼らは耐える。ひどい傷を負いつつも、自我と意志とを保っている。強いとはそういうことであり、強いキャラクターはそう描かれなければならない。あるいは彼らはひどい目に遭いながら、この現状から抜け出す術をしたたかにも探そうとする。強いとは理性を保つことでもあり、また向上心を持ち続けることでもあるわけだ。

 

逆説的に言えば、彼らを傷つけるシステムに抜け道は許されない。そんなものがあれば、強い存在はそれを見つけてしまうからだ。いや、正確に言おう。強い存在を強い存在として描きたいなら、その手の抜け道を常に探し続けるシーンを描かなければならないからだ。

 

というわけで必然的に、最後に訪れるものは絶望になる。抜け道が存在しない穴の中でもがく生活の抜け道はただひとつ、すべてを諦めてもがくのをやめるしかない。そうして彼らは強さを失う。長期間にわたる抵抗のあげくすべての希望を失うその描写こそが、強いものが傷つけられる描写だ。強いものが強くあったという印象を守りながらにして、それでもそのキャラクターの心を折ることの両立だ。

 

さて。弱きものが傷つく描写はそうならない。そうなる可能性はあるかもしれないが、そうする必要はない。弱きものは簡単に傷つくし、強さを証明する必要もない。これならば耐えられるかもしれないと読者が考える暴力に、屈してはいけない理由はない。

 

かくしてそのような暴力には抜け道が許される。弱い存在がそれを見つけられるとは限らないからだ。仮に見つけられたところで、彼らがそれを利用する保証もない。弱さとはすなわち、最善の行動を取ることができないことでもあるのだ。

 

それどころかむしろ、抜け道は描写をよりリアルにするかもしれない。抜け道があるのにそれを利用しないという矛盾がむしろ、彼らの弱さを際立たせるからだ。かくしてその手の描写では、最後に必ずしも絶望は訪れない。残るのはむしろ、後悔の念だ。いくらでも抜け出す方法があったのにもかかわらず自分がそれを利用しなかったのだという、悶々とした後悔の念。

 

もちろんこれらは、戯画化された創作の中の話だ。多くの人間は強すぎも弱すぎもしないから、実際の傷つき方の多くはこれらの中間にあるのだろう。絶望と後悔の、暗くて苦い混合物。純粋な後悔よりは硬く、純粋な絶望よりは薄汚れた記憶。

 

けれどこれらのパターンに気づいていることは、もしかすると人生の役にも立つのかもしれない。仮にわたしが、なにかに傷つけられたとき。その傷が自分の強さと弱さのどちらから来ているものなのかを理解していることは、きっと何かの足しになるはずだ。