教養になる街

街のことを語るのであれば、まずはその街の各区域が、どういった特徴を持っているのかを語る必要があるだろう。十分にその街を知り尽くしたひと相手ならいざ知らず、ふつうのひとにただ地名を伝えても、現代に関して伝えられる情報はもっともよくて、その地に洪水が多いかどうかくらいだ。それもそのはず、地名なるものの由来はあまりに古く、もはや書かれた歴史の領域に収まるかどうかすらあやしいものだ。よしんば歴史が解明した過去があったとして、それは現代のその場所に、ほとんどなんの爪痕も残していない。

 

しかるして街を説明したければ、わたしたちはまず、その地がどんな構成なのかを説明せねばならぬだろう。それも街の最北端だとか川沿いだとかそういう地理的な特徴ではだめだ。描写すべきはその地の建物の様子がどうだとか、歩くひとの数だとか表情だとか、あるいは道路を通るトラックの立てる騒音の内容だとか……、とにかくそういう地道な体感描写を、地域ごとにしっかり、ひとつずつ行っていかなければならないはずだ。

 

さて。だがすべての規則には例外がある。世界とは広いもので、そこにはいくつか、丁寧な描写なしにいきなり話をはじめても赦される街があるのだ。

 

日本ならそれは、東京と京都である。

 

知っている前提で話を始めていい街。東京がそうなのは周知のとおりだろう(東京嫌いのあなたのために補足しておけば、これは聞き手が知っていなければならぬ街という意味ではなく、知っている前提で話を始めていいと話し手が思っている街、という意味だ)。渋谷と言えば若者の街、そして人混みを愛するごく一部の変態にとって以外は、唾棄すべき騒音の街。新宿と言えばオフィス街、そして銀座の一等地の、整然と煌びやかなビルの並び。これらは説明なしに、突然話に登場させることが赦されている――その是非はさておき、渋谷という地名から想起されるイメージが共通認識であると、わたしたちの多くは信じている。繰り返すが、その是非はさておき。

 

そしてもうひとつの共通認識は、東京の知識を所与とする東京の人間の態度が、まったく非難すべきスノビズムにほかならないということだ。

 

その点おそらく、京都は性質が異なる。わたしたちはたしかに、洛中の風景を共通認識としている。京都を舞台とする創作物は四条河原町のきらめきを共通理解として進むし、その速度といえば、京都と東京以外のどの街にも許されぬ程度だ。だがわたしたちは、京都を所与とする京都人をそう観測しない。観測したとしておそらく、そう腹も立たない。これはあくまで東京と京都の人口の違いによるものではあろうが、とにかく現実に、歴史と伝統の街が共通理解であるべきことに疑いの余地はない。言うなれば、東京と違って、京都とは真に知っておくべき教養なのである。