人権主義の感性

青少年の努力の物語は往々にして、かれらの人権を犠牲にして成り立っている。

 

たとえば、甲子園を目指す高校球児を想像してもらいたい。夢に向かって努力する青少年の姿として、おそらくもっともステレオタイプな例だ。かれらはしばしば寮に詰め込まれ、三年間野球漬けの毎日を送る。練習は最低でも週六日で、それも朝練に始まり夜間練習に終わる。野球以外のことを考える精神的余裕も、体力的余裕もない。いわゆる「高校生らしいこと」に取り組む時間はない。多くの学校ではいまだに、丸刈りを強制される。

 

野球を中学でやめたわたしにとって、これらは実体験に基づく話ではない。どのみち強豪校に通っていたわけでもないから、こうなっている生徒を見たわけではない。けれど世間の様子を見るに、それほど実態からかけ離れているわけではないだろう。学校によって細かな違いはあるだろうが、あくまでステレオタイプとして見れば若者は、人権意識の強い世界ではありえないほどの拘束を受けているわけだ。

 

これらの拘束を成立させているのは若者の無知によるところが大きい。目指している、あるいは目指していることになっているもの以外になにかをやってもいい世界を、彼らはまだ知らないのだ。知っていれば、あんな強制ははねのけられる。知らないからこそ、若者は搾取される。だからこそわたしたちは、そんな若者の目を覚まさせねばならないのだ。夢という名の強制にきちんとノーを突き付けられるように、若者に教え込まねばならぬのだ……

 

……というのが、いわゆる人権主義的な思想というやつだ。

 

リベラリストが思うほど、こういう思想は市民権を得ていない。部活を頑張る若者は、べつにかわいそうではない。むしろ反対に、世間は若者たちを美しいと見做している。若者の盲目的な努力は、それが大人には持てない純粋な盲目性に依存しているからこそ、余計に美しいのだ。

 

若者の努力はしばしば、創作物の題材になっている。部活ものはスポーツマンガの鉄板だし、そうでなくとも、物語の主人公には若者が多い。人類全体の年齢の分布を考えるに、その割合は不自然なまでに高い。そしてそういう作品は、登場人物が若者であるからこそ、見栄えがする仕掛けになっている。登場人物が無知であるからこそ、美しく見える物語になっている。

 

そして。一旦人権主義的な思考様式を手に入れてしまったが最後、わたしたちはそういうものを二度と、純粋に楽しめなくなってしまう。