避けるべき方向

わたしにとって研究の喜びとは、問題を解く喜びのことだ。目の前の問題に対して考えをめぐらせ、固有の特別な性質を見抜く。あるいはその問題に対して、どのようなテクニックが適用できるかを総当たりする。そうやって理解を深め、目標へとたどり着く。

 

ときには、最初に考えた問題ではろくな研究ができないこともある。というより、たいていの場合はそうだ。問題を解いて論文を書くためには、それがちょうど、論文にできるような解法を持っていなければならないのだ。そして残念なことに経験上、ほとんどの問題はそう都合よくできているわけではない。

 

なにも知らずに作った問題のほとんどは難しすぎるか、あるいは簡単すぎる。難しすぎれば歯が立たないから、論文にはなにも書けない。なにもわかりませんでした、では成果とは呼べない。逆に簡単すぎると、論文にする価値がない。そういうケースの多くは、既存のテクニックの適用だけで機械的に解けてしまう問題なわけだが、そんなものは教科書の演習問題にでも載せておけばいいのだ。

 

だから論文を書きたいなら、わたしたちはゴールを動かさなければならない。難しすぎも易しすぎもせず、十ページ以上はかかるけれど証明はできるような、そんなちょうどいい命題を目掛けて。それを見つけるのはなかなか難しい。ちょっとした奇蹟が必要だ。けれど砂漠に金を見つけるほどの大変さではない。見つかるときは見つかるから、わたしたちはコンスタントに論文を書ける。

 

けれど。こういう方法で研究を続けていると次第に、目の前の世界がだんだんと小さなものに思えてくる。ちょうどいい難易度のことはすべてやり尽くしてしまったという、枯渇した感覚を覚えるようになるのだ。この砂漠にあって未踏のオアシスは、もうすべて飲みつくしてしまったのだろうと。

 

命題の砂漠をわたしたちは放浪する。地図もコンパスも、最初のうちは持っていない。その状態で、右も左も分からないまま、わたしたちは目についた問題に挑む。解けるか、解けないと結論付けるまで、そこでの戦いは続く。

 

戦いがどう終わろうが、わたしたちはひとつの知識を手にしている。運よくそれが論文になる知識だったのなら、その知識を論文にして、次なる探索を始める。それが難しすぎたり簡単すぎたりした場合も、わたしたちはそれが難しすぎたり簡単すぎたりするということを知っている。この方向にはオアシスはあり得ない、あるいはこの方向はすでに別の放浪者が探索しているとわたしたちは知り、次からは避けると心に誓う。次なる問題を考察するたびに、避けるべき領域は広がっていく。

 

こうやって研究を進める研究者にとっての最終的な結末はもう、分かり切っている。避けるべき領域は広がり続け、探索範囲の全土を覆い、そしてやることがなくなるのだ。