村 ⑥

 進歩という観念の非存在と、それによる絶え間ない現状維持。サイエンス・フィクションの舞台としての古代の村を成立させるいちばんの要因が、その手の不変性である。

 

 そこの住人は現代人とちがい、あらゆる意味での諸行無常を信じない。無常であるかどうかということを強く意識することもない。かれらにとって一番重要な問題はその日の狩りの結果や、その年に冬を越すだけの食べものがあるかどうかという素朴なものであって、遠い未来に自分たちがどうなっているかとかどのような姿をしているかとか、そういうことにかれらは興味を持たない。

 

 かれらはつねに地に足をつけている。物理的な大地震を除いて、生活の足元が根本から揺るがされることはない。目まぐるしく変化するこの現代社会でわたしたちがいやというほど味わっている、自分はいずれ社会の勢いについていけなくなって地面から振り落とされるのではないか、という不安から、かれらは完全に自由である。

 

 かりに遠い未来にかれらが存続しているのならば、かれらは描かれた時期と同じ生活をしている。食べ物がなくなったり外敵が来たりして、未来のある時期を境にしてかれらが存在をやめることはあるだろうが、その滅亡の瞬間、かれらは描かれた時期と同じ生活をしている。そうでない未来をかれらは想像しないし、想像する能力を持たない。

 

 現実の歴史を紐解いてみれば、もちろんその想像は間違いである。たとえば大航海時代以降、文字を持たない島の先住民のもとに現れた列強諸国がなにをしたかを考えてみれば、明らかな話だ。先進国がやったことがトータルで見てはたして良かったのか悪かったのかは、ここではあえて議論するまい。重要なのは、侵入者がおよそどのようにその地を治めたとしても、先住民の日常の不変性は間違いなく破壊されるということだ。

 

 そしてその破壊行為は、侵略者の功罪を抜きにして、つねに不可逆的な悲劇の物語として語られるわけだ。

 

 悲劇なら物語にしてしまえばよい。そして現代が舞台ではそんなにうまくはいかない。現代人はみなどこか達観しており、生活の基盤はつねに不安定な土壌の上にあると理解している。だから現代を破壊したところで、現代人はおそらく、破壊された後の世でたくましく生き続けられるだろう。だが破壊されるのが、そのようなことを考えたこともない、いたいけな村人たちの生活だったとすれば?

 

 この点でもまた、古代の村は、サイエンス・フィクションの舞台として優れている。世界は変わらないということを前提にして生きてきたひとびとになんらかの変化をもたらせば、それだけで物語は悲しみの旋律を帯びるのだ。物語にはかなげなムードがつくり出せる、というわけだ。