不完全への期待感

新しい技術の存在を知り、それでいったいどんなことができるのかとあれこれ試している時間、わたしたちは未知の世界に心を踊らせている。技術それじたいはすでに実現されているものではあるけれどその使い方のほうは未発達だから、競うようにわたしたちは面白そうなことを考え、面白さについて議論する。

 

新技術という性質上、それに飛びつく人間は全員が素人だ。目の前に突然ひらけた肥沃な大地をわたしたちは同じ場所から眺めているし、全員が同じ場所にいることを全員が知っている。つまり経験の差に関係なく、新しい利用法を発見する可能性は誰にでもあるわけだ。だからこそ全員が、己の想像力を恥じることなく発揮しようと試みる。

 

それはなかなかに刺激的な空間だ。老いも若いもみな一緒になって、完全に自由な発想を戦わせる。その分野の知識というものはそこでは先入観に過ぎず、発見の邪魔にこそなれ、助けにはならない。逆に別の分野の知識は創造力の友であり、みずからが持てる自分だけの知識をいかにして活用するのかが腕の見せ所だ。自分にしかできない発見の可能性がそこには転がっており、わたしたちはただそれを拾い上げればいい。

 

実際にはもちろん、そんなに夢はない。新しい技術を何か面白いものに活用するという点において、世の中には異常なほどのセンスを見せる人間がいるのだ。新技術を味わい尽くすためのコミュニティの中で、彼らは常に中心にいる。中心にいながらまた面白いことを生み出すから、どんどんひとに取り囲まれてますます中心に行く。

 

そして彼らこそが、新技術の行き先を規定する。それでなにができるのかを、彼らが決める。それでなにをするのかを。

 

胸踊る新技術とは、いつも不完全なものだ。だからこそわたしたちはその使い道を考えようとする。完全ならば使い道など考えるまでもないのであって、したがって胸を踊らせる必要もない。それは単に社会に取り入れられて、常識になっていく。

 

わくわくする技術はだから、使い道が難しい。使い道が難しいからこそ、わたしたちはどう使おうかと考え、無理やりにでも使い道を見出す。そしてそれを見出そうとする努力にこそ、新技術というものの喜びがある。ある程度実用的な使い道が見つかっても、あるいは趣味の域を出なくても、新技術というものの価値にはもしかするとそれほどの違いはないのかもしれない。どうせ、大したことはできないのだから。面白い何人かに行き先を規定されても、面白いのならそれでいいのだ。

 

新しい技術への期待とは、つまりは未来への期待だ。その未来は技術の不完全性のせいでまだ実現できないけれど、それらが克服されれば実現されるかもしれないものだ。まだ来ぬその時代について、わたしたちは尽きることのない議論をする。それがまだ来ていないがゆえに、未来についてわたしたちは、完全に自由に語ることができる。実現されないからこそ、夢には価値がある。

 

その意味で、未来への期待とはできることではなくできないことの中に宿るのかもしれない。使い道のどうにも難しい、不完全で不自由な完全な自由に。