状態と権利の多様性 ②

権利としての多様性について、本質的に語るべきことは少ない。人種や性別をはじめ、みずからの意志では容易に変更することのできないそのほかすべての性質から、ひとは完全に自由であるべきだ。それらの性質はだれかがなにかになるということを一切阻害してはならず、したがってあらゆる選抜は、そういう生得的な性質とは独立に行われなければならない。ユートピアとはつまり、個々人の持つすべての性質が、あらゆる場面においてまったく考慮されなくなった世界のことだ。実際にそんな世界を作るのはもちろん困難極まる作業だし、そんなはるかな夢が実現されるとはだれも思っていないけれど、とにかく理想はその世界。そこへと向かう道筋に関してあれこれ言い争うことはあれど、高遠な目標がなんであるのかについては、きっと議論の余地はない。完全な均一性こそが、目指すべきゴールなのだということには。言い換えるなら、権利としての多様性とは絶対の正義だから、純粋な理念上の問題は発生しえないわけだ。

 

しかしながら。状態としての多様性に関しては、おそらくそうではない。その場にいろいろなひとがいるということの是非には、その場に参加する権利をいろいろなひとが持っているということが自明の正義であるのとは違い、議論の余地がある。何歳からでも高校に入学することができる、その権利があることはたしかに重要だ。けれど高校が、実際にありとあらゆる年齢の生徒がともに学ぶ空間だという状況は、果たして手放しで善いことだろうか? メリットとデメリットを比較して、本当にメリットが勝るのだろうか? 状態としての多様性はきっと、常に尊重すべきものであるとは言えないのではなかろうか?

 

状態としての多様性に、権利の問題は関与しない。権利が関与しないのだから、損得を勘定に入れることが許される。権利としての多様性の場合には自明であった命題、多様性が重要であるという命題は、もはや自明の真理ではない。

 

それでも多様性を求めるのなら。多様性は、一様性との比較の俎上に上がるべきだろう。多様性は戦わねばならない、議論して勝ち取らねばならない。いろいろなひとがいるという状況が、具体的にはなにを生み出すのか。一様性の持つ快適さを、上回る価値を提供できるのか。多様性が生み出すとされているものは、一様な集団ではほんとうに達成されえないことなのか。

 

けれども。そういう議論がおおっぴらにされているところを、わたしはあまり見たことがない。