冷笑の夏

長かった冬の時代が終わり、冷笑主義の天下がやってきた。社会そのものを嘲笑うという選択は、いまやきわめて正当な態度になった。熱血、純情、希望。テレビから、ネットから、それらの忌まわしき感情は消えようとしている。そして素晴らしき冷笑の潮流が、素朴さのすべてを押し流そうとしているのだ!

 

かねてからわたしは、筋金入りの冷笑主義者を自称してきた。そのわたしが言うんだから間違いない、社会はようやく、わたしに追いついた。いまやわたしたちは、光の中で主張することができる。理想の社会とかいう夢を、ラブアンドピースとかいう希望的観測を、これ見よがしにバカにして一笑に付すことができる。きみの脳にはどんなお花が咲いてるのかな? きっといまでも、きみの将来の夢はケーキ屋さんかサッカー選手なんだろうね~。あっ、いまはユーチューバーが人気なんだっけ?

 

まあ、そんなキツいセリフは現実には心の中だけにとどめておくわけだけれど。とにかくまあ、脳味噌がお花畑なひとに、お花畑だと言える世の中に現代はなった。情熱と純粋さの暑苦しさを、希望と夢の盲目を、お涙頂戴の物語の、あからさまな作為性を。わたしたちはようやく、キャンセルするすべを手に入れた。なかなかまあ、生きやすい世の中になってきたものだ。

 

しかしながら。最近の冷笑主義いけ好かない。某掲示板の元管理人だとか、偉大なる冷笑主義者たちが光の世界に出てくるようになったことそれじたいは、まだいい。冷笑主義が市民権を得たことも、いい。けれど最近のニワカたちは、偉大な冷笑主義者たちの劣化コピーだ。やつらは有名な冷笑主義者を神様のように崇拝して、ことばをなんの疑いもなく受け取ってしまう。そんなんで冷笑主義と言えるのか。なにをどうバカにしようか、自分の頭をひねって考えるのが、冷笑主義ってものじゃあなかったか。

 

ああ。つくづく面倒なやつだ。当たり前である。わたしは自称・古参の冷笑主義者だ。そして冬の時代を知るものとはだれもかれも、このうえなく面倒くさいものだ。それがおよそ、どんなことに対するものであっても、古株とは、そう。そして新参者は、老人たちの目を見て界隈から去る。

 

まあ。新人が去り、文化が廃れてゆくことくらい、べつにどうでもいい。というか、止められることでもない。なにせわたしは、冷笑主義者にして宿命論者だから。どんな思想もこうして滅びる。冷笑主義だけが、その流れを追ってはいけない理由はないだろう?

 

まあ。せいぜいそれまで、冷笑の夏を謳歌していよう。