リアリズムのロマンチシズム

リアリズムなる考え方には結構な魅力が宿っているようで、リアリストを自称するひとは世の中に多い。それはこと教養層、すなわち自分のことを比較的賢いと認識している層に特に多く見られる習性で、彼らはこの世の中を、絶望的な合理主義の支配する場所だと理解している。彼らはこういうふうに考える――世の中で可能なことはすべて実際に起こりうることであり、われわれは絶望的な未来を受け入れるか、そうでなければその未来をきわめて起こりにくいものにするために、何らかのシステムを築き上げねばならない、と。

 

このようにリアリズムは、つねに絶望とセットで語られている。道徳のけっして意味をなさない絶望、それは起こりうるゆえに必ず起こる未来だ。ひとが信じるのは、平時においても極限状態においてもかわらず己の個人合理だけだ。彼らの頭の中の世界は、究極的には一切の理解のない、絶望的なアナーキーで構成されている。

 

しかしながら、世の中はそれほど単純ではない。人情に期待しすぎるのが考え物だとしても、それでもひとには人情がある。ひとは非合理な判断をとるし、そのうちの大部分は単に、なにもしないという判断だ。誰もが起こりうると信じているのになぜか起こらないことは、世の中にはいくらでもある。リアリストが思うほど、リアルはリアリズム的ではない。

 

そう考えれば、リアリストとは存外ロマンチストだと言えるかもしれない。リアルはリアリズム的でない。リアリズムは必ずしもリアルを扱わない。つまりリアリストの脳内の「リアル」は、リアリストによる一種の創作なのかもしれない。絶望が支配する領域という、穿った意味でのロマンチック。

 

リアリストにとってそれは沽券にかかわる問題だから(「リアル」を見ずになにがリアリストか!)、おそらく彼らはそれを認めないだろう。彼らがリアリズムと呼んで信じているのは流行りの冷笑主義のことであり、そして冷笑主義という態度は、みずからのロマンチシズムへの指摘にとことん弱い。彼らが冷笑を続けられるのは、絶望的な真実が彼らにあるからだ。理想にはない現実の制約を、彼らが理解しているからだ。彼らは困り果てる――彼らの真実が、結局はもうひとつの理想に過ぎないと知ったら!

 

リアリズムとはある種の流行り病だ。若年期に結構な人数が罹患し、そして絶望によって恢復する。リアリズムを乗り越えたものは、一見して理想主義者に戻ったようにも見えるが、結局は単につぎの絶望につきあたっただけだ。リアリズムもまたロマンチシズムであるという、絶望への絶望に。

 

さて。ではその次はあるのだろうか。リアリズムを超えたロマンチシズムに、終わりはあるのだろうか。絶望に絶望することにもまた、絶望は訪れるのだろうか。

 

わたしはまだ、その答えを知らない。だがそれも、おそらく近いうちに分かるだろう。