状態と権利の多様性 ④

話をまとめよう。多様性の素晴らしさと広く呼ばれるものは、おおまかにふたつに大別される。ひとつは、権利としての多様性。すべての場所にすべてのひとが、みずからを定義する属性に影響されることなく足を踏み入れられる、その権利の重要さだ。

 

権利としての多様性のないことは、世界がまだまだ偏見に満ち溢れているという不完全さの象徴としてとらえられる。もっともこの意味で、真なる多様性の訪れる日はまず来ないだろう。いつの時代も、現代とは権利のない世の中として定義されるからだ。不完全は悪だと権利活動は言っている。さすれば、世界は永遠に悪であり続ける。

 

もうひとつの多様性とは、状態としての多様性。言い換えれば、多様であることそのものが生み出す価値だ。さまざまなバックグラウンドのひとたちが、同じ場所にいる。文化的に多様な集団はきっと、均質な集団ではけっして達成しえなかったなにかを次々と達成することができるというのが、広く信じられている多様性の夢だ。

 

状態としての多様性がないことは、必ずしも悪ではない。状態としての多様性の本懐は、多様であることからなんらかのメリットを享受できることにあるのだ。そのメリットを受け取らないという選択肢は、だれかを差別し続けるという選択肢と違って正当だ。特定の視点に立てばかならず見えてくるはずのものが、かりに一様性のせいで見えなかったところで、それでもいいものをつくることはできるかもしれない。

 

けれどもそのふたつはよくごっちゃにされる。状態としての多様性を求めるために、ひとはときに権利のロジックを持ち出す。あるいは逆に、権利としての多様性への闘争を、状態の問題にして矮小化する。これらが意図されてのものなのか、それともたんに区別がついていないだけなのかは定かではないが、とにかく現にひとはそうしている。

 

まあ、無理もない。それに極端に抽象化すれば、両者は同じかもしれない。

 

多様性を食べることに喩えるなら。権利としての多様性とは、だれもが栄養のある食事にありつけるような状態だ。味はさておき、とりあえず生まれや身分を理由に、権利という栄養が足りなくなりはしない状態を目指しているわけだ。状態としての多様性は反面、食事という経験をよりよくするための仕組みだ。通常のメニューにプラスして、多様性という味玉でもトッピングするかどうかといった選択だ。

 

そしてそれらは、ある意味では同じことだ。単に、食事を増やすかどうかという問題。

 

そうやって解像度を下げて、トッピングと炊き出しを同列に語ること。それは本当に、良くないことなのだろうか?

 

きっと良くないのだろう、とわたしは思う。富めるものの論理は貧しいものに通用しないし、その逆もしかり。わたしはそう信じるから、権利と状態を区別しようと思う。けれどそれでも、どちらも達成されたほうがいいことだとしてそれらを同一視するのならば。

 

統一的な理想のために戦ってくれるのならば、まあ、それはそれでいい。